ずっこけテストパイロット、京都・大阪の旅ーその④「西村真琴と魯迅展」 に行きました!!

ずっこけテストパイロット、京都・大阪の旅ーその④
西村真琴魯迅展」 に行きました!!
 
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 京都で武徳殿を見学したテストパイロットは、豊中市で行われる「西村真琴魯迅展」に参加しました。
 
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まじめにスーツを着ています。 
 
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度盡劫波兄弟在、,相逢一笑泯恩讐
劫波を度り盡せば兄弟在り、相逢うて一笑すれば恩讐ほろぶ
 
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 偉いさんがいっぱいくるので、テストパイロットは開館直後にゆっくりと見ました。
 
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頓宮寛先生と福民病院がパネルで紹介されていました。よかったです。
 
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《鲁迅日记》1933年6月21日:“西村(真琴)博士于上海战后得丧家之鸠,持归养之,初亦相安,而终化去,建塔以藏,且征题咏,率成一律,聊答遐情云尔。”西村是一个日本医生。
 
  1932年1月28日、日中両軍が衝突した上海事変が起きた。事変の最中、大阪毎日新聞(現毎日新聞)学芸部に在籍していた西村真琴と、中国の文豪、魯迅(ろじん)との間に、1羽のハトを介した友情が生まれた。西村は事変が起きて間もない2月6日、戦いで負傷した人たちを治療する医療団を率いて、上海に渡った。市郊外の三義里で飢えて飛べなくなったハトを見つけ、「三義」と名づけて、日本に連れ帰って育てた。三義に二世が生まれたら、西村は日中友好のあかしとして、上海に送るつもりだった。残念ながら、三義は豊中市の自宅で、イタチの襲われて死んでしまった。西村は「三義塚」と刻んだ碑を建て、その思いを手紙にしたため、「西東国こそ異(たが)へ小鳩等(こばとら)は親善(したしみ)あへり一つ巣箱に」の歌と、三義の絵を添えて魯迅に送った。
 魯迅は感激し、漢詩「三義塔に題す」を作って西村に贈った。詩は「度盡劫波兄弟在 相逢一笑泯恩讐」と結んである。「荒波を渡っていけば兄弟がいる。会って笑えば、恩讐は消える」という意味だ。
 1981年に兪啓慧・中国芸術学院教授が魯迅生誕100年を記念して、木版画集「度盡劫波兄弟在」を制作した。2002年には、豊中市立中央公民館の敷地に、豊中市日中友好協会が中心となり、石碑「三義塚」を設置した。戦火の下での友情は、今も語り継がれている。(梶川伸)
【「西村真琴魯迅、そして日本の友人」展・シンポジウム】展覧会は2月23日~25日、豊中市立中央公民館。シンポジウムは23日午後2時~5時。上海魯迅記念館長らが講演とパネル討論。豊中市日中友好協会(06-6857-3395)など主催。
                                            「マチゴト豊中・池田」より抜粋
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 なんで魯迅展に水戸黄門がいるのだろうか・・・あの西村晃さんは、西村真琴の次男だったのです。
 
 西村真琴が作った日本で最初のロボット「学天則」です。80年ぶりに大阪市立科学館で復元されたもので、ブロ友の直さんが好きそうなものです。
 
 学天則は、巨大な机に人形が座ったような形で、高さ約3.5m、幅約3m。肌は金色、頭に緑葉冠をかぶり、顔は様々な人種を掛けあわせた感じの容姿であった。右手に鏑矢型のペン、左手に霊感灯と呼ばれるライトを持っていて、ゴムチューブによる空気圧変化を動力に、腕を動かしたり、表情を変えたりでき、全体の制御は突起の付いた回転式ドラムによって行われた。
上部に告暁鳥と言う機械仕掛けの鳥が付属していて、この鳥が鳴くと學天則は瞑想を始める。そしてひらめきを得ると霊感灯(インスピレーション・ライト)が光を放ち、それを掲げ、鏑矢型のペンでひらめきを文字にしたそうです。
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いす。っっっっk構造が明らか
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どんどん人がきました。こんな催し物は早く行くのに限ります。
 
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上海魯迅記念館の王錫栄館長です。
 
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 王館長とは2010年9月に上海で行われた「魯迅国際友人展」でお会いしていました。あの時はお世話になりました。
 
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ホテルで行われたレセプションですが、お年を召した人が多かったです(笑い) 
 
イメージ 13 大阪大学に留学している女子大学生によるアトラクションです。テストパイロットは、席から離れて前に行って、「ええなぁー、ええ」と言いながら、ずっと見ていました。 
 
 この「西村真琴魯迅展」は、昨年一度流会となっています。これを開催するのは大変だっただろうと思います。
 魯迅の「劫波を度り盡せば兄弟在り、相逢うて一笑すれば恩讐ほろぶ」という言葉を思い浮かべながら小豆島に帰ったテストパイロットです。
 
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