2009-12-01から1ヶ月間の記事一覧

回首七十有餘年 人間是非飽看破

日本の敗戦とともに福民病院の本院、別院、居宅を初めとした莫大な資産をすべて国民軍に没収され、トランク二つを携えて故郷小豆島小部村に帰ってきた頓宮は、五ヶ月後の昭和二十一年九月、上海から引き揚げ日本各地に分散していた旧福民病院の医師や看護婦…

魯迅、頓宮寛の福民病院に我が子を託す。

国を、主義主張を超えて医療に邁進する頓宮の福民病院には、日本人のみならず、さまざまな人間が患者として訪れていた。 太平洋戦争開戦前、野村吉三郎駐米大使、来栖三郎特命全権大使を補佐し、日米交渉に奔走した外交官寺崎英成の妻であり、昭和三十二年夏…

魯迅が信頼した東洋一の上海福民病院

森川は、ダグラス飛行艇を操縦して上海へ通ううちに、同じ小豆島出身で、その頃、東洋一の個人総合病院と謳われていた上海福民病院「(FOOMING FOSPITAL)」の院長である頓宮寛と出会うことになった。 頓宮寛は、明治十七年二月二十二日、古…

小豆島出身、上海福民病院院長頓宮寛との出会い

大空では、パイロットの一瞬の判断が、不用意な操作が、飛行機に乗っている者すべての明暗を分ける。森川とは横須賀航空隊で同じ飛行艇パイロットとして親交のあった佐藤宗次は、九〇式二号飛行艇を使った夜間離着水訓練において、着水時に失速して海原に突…

森川、吹雪の飛行、あわや墜落か

森川もまた、あわや墜落かという事態に遭遇した。 十二月二十日、森川は九〇式二号飛行艇で大連までの飛行を命じられた。 早朝、佐世保を離水し大連に向かう九〇式二号飛行艇の機長は鈴木由次郎少佐(海兵五十一期)、左側の主操縦席には飛行艇分隊に配属に…

「空の英雄・片翼帰還の樫村寛一」と日本中にその名を轟かせた。

十二月九日、森川と同じ香川県人の樫村寛一三等航空兵曹が片翼で帰還して、一躍「空の英雄・片翼帰還の樫村」と日本中にその名を轟かせた。樫村は、大正二年七月五日生まれ、第二十四期操縦練習生出身であった。 九六式陸上攻撃機十五機を護衛していた十三空…

森川の渡洋飛行と間瀬平一郎空曹長の戦死

九月に入ると、森川と空林に、「佐鎮号(さちんごう)」と名付けられたダグラス飛行艇に高級参謀を乗せて上海へ飛ぶようにとの命令が下された。 森川と空林は、東支那海を一気に飛び越え、横浜航空隊が基地とする黄浦江竜華飛行場沖にダグラス飛行艇を着水さ…

昭和13年の海軍航空隊のすべて

その頃(第二次上海事変勃発前)の海軍の航空兵力は、陸上、海上両部隊合わせて常用機数は四百十八機、飛行機搭乗員は士官(少佐以下)百五十四名、特務士官及び准士官百五十名、下士官兵は偵察九百二十四名、操縦員千二名(水上機三百五十名・艦上機六百五…

「欧米の飛行機に追いつき追い越せ」というスローガンのもと

この第一連空鹿屋航空隊抗州空襲部隊第二小隊二番機の主操縦員として九六式陸上攻撃機の操縦輪を握っていたのは、森川の郷里小豆島四海村の隣村である土庄村出身の川崎昇三等航空兵曹(予科練第三期)であった。 川崎三空曹のことをよく知る鈴木富久二(乙種…

第二次上海事変勃発、森川渡洋飛行へ

中国大陸における戦雲は急を告げていた。 七月七日、北京西南の廬溝橋付近で日中両軍が激突。八月九日、上海で大山海軍大尉と斎藤一等水兵が射殺されるという事件が発生し、戦火は上海に波及。十三日には第二次上海事変が勃発した。 八月十四日、東支那海を…

航空廠飛行実験部でのテストパイロット時代を回想して

森川は、航空廠飛行実験部でのテストパイロット時代を回想して、 「大正時代の飛行機は発動機の馬力が貧弱で、飛び上がることさえ容易ではない飛行機もありましたが、昭和二年にリンドバーグが大西洋を横断して以来、飛行機会社が設計、試作した飛行機は、機…

飛行機の燃料に不可欠な四エチル鉛(テトラエチル鉛)

飛行実験部で九試中艇の実験主務をしていた伊東祐満少佐が、日本初の大型飛行艇実施部隊として昭和十一年十月一日に開隊された横浜海軍航空隊(浜空)の飛行長兼副長代理に補された。しかし九試中艇は九一式飛行艇の後継機としてロールバッハ式以来飛行艇製…

九六式艦上戦闘機との模擬空中戦

当時、この三菱機の設計、試作に携わっていた内藤子生(戦後Tー1ジェット練習機の主任設計者、東海大学名誉教授)は、激しい不意自転の対策について、こう回想している。 「赤城の山頂から静けさを求めて九十九里浜に向けて飛んでの実験、測定を終えたら太…

航空廠飛行実験部での各種試験飛行

飛行実験部で定められている各種試験飛行を習得した森川は、愛知時計電気と三菱で試作された二機の水上観測機(十試観測機)の試験飛行に携わることになった。 海軍において、試作機の計画、審査、制式採用までの過程は、おおむね次のように行われていた。 …

二式大艇で真珠湾攻撃・庄助ラッパこと笹生庄助

もう一人は、森川と同じ飛行艇パイロットとして、海軍航空隊にその名を轟かせた、「庄助ラッパ」こと、笹生庄助である。 昭和十七年一月、開戦劈頭の真珠湾攻撃で擱座や大破した艦船の修復を行っている真珠湾の海軍工廠に爆撃を加え、アメリカの反攻の出ばな…