昭和13年の海軍航空隊のすべて

その頃(第二次上海事変勃発前)の海軍の航空兵力は、陸上、海上両部隊合わせて常用機数は四百十八機、飛行機搭乗員は士官(少佐以下)百五十四名、特務士官及び准士官百五十名、下士官兵は偵察九百二十四名、操縦員千二名(水上機三百五十名・艦上機六百五十二名)、これら航空機と搭乗員は、十三の航空隊や四隻の航空母艦、二隻の水上機母艦などに配属されていた。

◎航空隊として
横須賀海軍航空隊(横空)ー各種航空機
佐世保海軍航空隊(佐空)ー水偵・飛行艇
霞ヶ浦海軍航空隊(霞空)ー練習機その他
大村海軍航空隊(大村空)ー艦上機
館山海軍航空隊(館空)ー艦上機・水偵・飛行艇陸攻
呉海軍航空隊(呉空)ー水偵・艦戦・艦攻
 大湊海軍航空隊(大湊空)ー水偵・陸攻・艦戦
佐伯海軍航空隊(佐伯空)ー艦上機・水偵・飛行艇
舞鶴海軍航空隊(舞空)ー水偵
木更津海軍航空隊(更空)ー陸攻
鹿屋海軍航空隊(鹿屋空)ー陸攻・艦戦
横浜海軍航空隊(浜空) ー飛行艇
鎮海海軍航空隊(鎮海空)ー水偵
航空母艦(公式排水量)ー四隻
「鳳翔」 九千五百屯
「赤城」 四万一千三百屯、(改装中)
「加賀」 四万二千五百四十一屯
龍驤」 一万二千七百三十屯
水上機母艦(公式排水量)は二隻
能登呂」一万二千七百八十六屯
「神威」 一万五千三百八十屯
(豫科練外史「2」豫科練外史刊行会より抜粋引用)

召集を受けた森川は、携わっていた九試中艇の試験飛行を、八期飛行練習生同期の久保田守に託し、古巣の佐世保航空隊に向かった。
 森川は、飛行艇分隊(第三分隊)に配属された。分隊長は一足早く佐世保航空隊に転勤となっていた勝田三郎少佐、分隊士は森川と同じ小豆島出身の空林永治特務少尉であった。
森川は、佐世保航空隊に来て勝田少佐や空林特務少尉から話を聞いて初めて、なぜ自分が召集されたのかがわかった。
 航空廠飛行実験部において、勝田少佐と森川が試験飛行に携わっていたダグラス飛行艇一号機が、急遽佐世保・上海間の連絡用飛行艇として航空廠から佐世保航空隊に引き渡されることになっていたからである。
 ダグラス飛行艇に乗って上海に赴く高級参謀や連絡将校に万が一のことがあれば、作戦行動に齟齬を来す。佐世保航空隊ではダグラス飛行艇を操縦して上海まで渡洋飛行することが出来る飛行艇パイロットは、第三分隊長の勝田少佐と分隊士の空林特務少尉しかいなかった。森川がアルバムに貼っていた新聞の切り抜きによると、勝畑清航空官という、伊東祐満少佐や鈴木由次郎少佐と海兵五十一期の同期で、後年南洋庁航空部において活躍する老練な飛行艇パイロットでも、ダグラス飛行艇を不時着水させているほどであった。
 勝田少佐と空林特務少尉がパイロットとして、いつも飛ぶわけにはいかない。そこで、航空廠飛行実験部でダグラス飛行艇のテストパイロットを務めていた森川が召集されたのであった。