「欧米の飛行機に追いつき追い越せ」というスローガンのもと

この第一連空鹿屋航空隊抗州空襲部隊第二小隊二番機の主操縦員として九六式陸上攻撃機の操縦輪を握っていたのは、森川の郷里小豆島四海村の隣村である土庄村出身の川崎昇三等航空兵曹(予科練第三期)であった。
 川崎三空曹のことをよく知る鈴木富久二(乙種十一期)は、
「小豆島には海軍のパイロットがたくさんおりました。まず長老の空林さんを筆頭に、川西で二式大艇のテストパイロットをされていた森川さんがおられました。お二人は大正時代の操練を出られており、飛行艇パイロットとして有名な方でした。また九六陸攻パイロットとしては川崎昇さんがおられました。川崎さんは予科練第三期の出身で、杭州へ渡洋爆撃した時には片肺で戻り、新聞に『殊勲を語る弾痕七十、あっぱれ少年航空兵、廿一歳の川崎航空兵曹』などと書かれて一躍有名になった人です。惜しいことに遂寧への夜間攻撃に飛び立つ時に、外の九六陸攻と衝突して亡くなりました。川崎さんが殉職されなかったらもっともっと活躍したのにと思うと、未だに残念です」
鈴木は、川崎と同じ小豆島土庄村出身、森川が空林を慕って飛行練習生となったのと同じように、鈴木もまた川崎にあこがれ、飛行予科練習生を志願したのであった。
 川崎の操縦する九六式陸上攻撃機がこのように被弾したのは、日本機を迎撃した中国軍機の優秀さと対空砲火の凄まじさを物語るものであった。八月十五日の第一連空の戦闘詳報は、「本日ノ杭州攻撃ノ際、被害最大ナリシ一機ハ、地上砲火及ビ戦闘機十数機ニヨル弾痕大小実ニ七〇ニシテ、発動機一及ビ電信機使用不能トナリタルニモ拘ラズ被害ナシ、シカモ敵機二機ヲ撃墜シ、夜間単独基地帰投ニ成功セルハ、乗員ノ勇猛沈着称賛ニ値スルト共ニ、本機種戦闘ノ絶大ナルヲ思ハシム。」と、空中戦の激烈さを生々しくつたえている。
 しかし、十六日の東京朝日新聞は、「荒天の支那海を翔破・敵の本拠を空爆ーー長驅・南京・南昌を急襲、敵空軍の主力粉砕、勇猛無比・我が海軍機ーー首都南京を震撼し、壮絶・大空中戦を展開、空前の成果を収めて歸還」と華々しく書き立てたが、優秀な中国軍戦闘機と対空砲火により、たった三日間の戦闘で、当初三十八機の常用機を保有していた第一連空は、撃墜あるいは被弾のために、作戦使用可能の九六式陸上攻撃機は十八機にまでに激減、その後も被害は増え続けた。
 この被害の大きさの原因は、当時の主力戦闘機である九五式艦上戦闘機や新鋭の九六式艦上戦闘機の航続距離が短く、九六式陸上攻撃機の直掩が出来なかったからであり、また、それ以上に、九六式陸上攻撃機が戦闘機を凌駕する三百八十キロという最高速と四千三百八十キロという長大な航続力を追求する余り、重量の増加を伴う防弾ゴムなどの自動漏洩防止処理を施した燃料タンクではなく、欧米の民間旅客機のように、主翼それ自体を燃料タンクとするインテグラルタンク構造を採用したため、中国軍機の七・七ミリ機銃弾を受けると、すぐに発火したからである。第一連空の司令部から航空本部に対して、「本機ノ燃料タンクハ敵弾ニタイシテ極メテ脆弱ニシテ速ヤカニ対策ヲ講ズルヲ要ス」という意見具申が提出されたのは、このためであった。
 「欧米の飛行機に追いつき追い越せ」というスローガンのもと、日本の航空界は日夜血の出るような研究開発に邁進し、ついには世界の航空レベルをはるかに凌駕する九六式陸上攻撃機零戦などを生み出したが、発動機の出力が限られている以上、飛行機それ自体の重量は制限される。機体を軽くして航続距離や最高速度などの性能向上を優先するか、重くなっても防御力を重視するかという選択を迫られる。結局、航続距離や最高速度の重視と引き替えに、防御力軽視となったのである。
 さらに海軍は最新鋭の九六式陸上攻撃機のメカニズムを中国軍に知られるのを怖れ、敵地内での不時着を固く禁じていた。このため被弾し火を噴いた九六式陸上攻撃機の七名の搭乗員は、落下傘で脱出しようとせず、僚機にハンカチを振って別れを告げると、機首を下げ従容と自爆したのである。
 あたら助かったかもしれない搭乗員の命が数多く失われたこの悲劇は、昭和十五年七月、実用実験中の十二試艦上戦闘機(制式採用されて零式艦上戦闘機十一型)が直掩するまで続いた。
飛行機は機材さえあれば造ることが出来るが、パイロットを初めとした搭乗員は、一朝一夕に養成することは出来ない。最低でも一年という訓練期間が必要であり、航空隊に配属され腕を磨いてようやく一人前になっていく。九六式陸上攻撃機の場合、操縦、偵察、無線、機上整備などの搭乗員が一機で七名、一度の爆撃で五機撃墜されると、三十五名の搭乗員を一挙に喪失してしまう。戦況が逼迫するにつれて海軍の航空機搭乗員の不足が問題となり、第七十議会で昭和十二年度海軍補充計画が承認され、航空機搭乗員の急遽養成の予算が可決されたのは、このためであった。
 この防御軽視、攻撃優先の思想は改められようとはされないまま太平洋戦争に突入し、九六式陸上攻撃機の後継機である一式陸上攻撃機もまた、アメリカ軍のパイロットから、被弾するとすぐに火を噴くことから、「ベティ・ワンショット・ライター」と揶揄されたように、カダルカナル島争奪戦における惨敗(二ヶ月で一式陸攻百機以上の損失)、ブーゲンビル島上空での山本五十六大将の戦死、野中五郎少佐の率いる神雷桜花部隊の全滅など、数々の悲劇を生むことにつながったのである。