第二次上海事変勃発、森川渡洋飛行へ

中国大陸における戦雲は急を告げていた。
 七月七日、北京西南の廬溝橋付近で日中両軍が激突。八月九日、上海で大山海軍大尉と斎藤一等水兵が射殺されるという事件が発生し、戦火は上海に波及。十三日には第二次上海事変が勃発した。
八月十四日、東支那海を北北東に進む九百六十ミリバールの台風の影響を受けた悪天候にもかかわらず、この事変のために木更津と鹿屋航空隊が母体となり特設された第一連合航空隊(第一連空)の九六式陸上攻撃機十八機は、吹き荒れる暴風雨を衝いて台北基地を飛び立ち、広徳、杭州爆撃に向かった。
 翌十五日早朝、なおも荒れ狂う暴風雨にもかかわらず、第一連空の九六式陸上攻撃機十四機が台北基地から飛び立ち南昌飛行場を爆撃、続いて佐伯・大村航空隊が母体となった第二連合航空隊(第二連空)の九六式陸上攻撃機二十機が大村基地を飛び立ち、暴風雨の東支那海を渡洋飛行し、南京飛行場を爆撃したのである。
海軍の新鋭機九六式陸上攻撃機の初陣であった。
海軍は昭和初年から仮想敵国アメリカの太平洋艦隊を漸減邀撃するべく、南洋諸島の島々に航空基地を設け、航続距離の長大な陸上攻撃機飛行艇を艦隊決戦の一助を担わせるという作戦計画を策定していた。その用兵思想の延長線上に生まれたのが、水上機では海軍初の四発大型飛行艇である九試大型飛行艇(九七式飛行艇)や、森川が試験飛行に携わっていた九試中型飛行艇(九九式飛行艇)であり、陸上機では、それまでの攻撃機とは異なる、「陸上基地から発進し、洋上の敵艦隊を攻撃する」ことを目的とした九試中型陸上攻撃機九六式陸上攻撃機)であった。
 九六式陸上攻撃機二十二型は、中翼単葉全金属製、乗員七名、全幅二十五メートル、全長十六・四五メートル、全高三・六八メートル、主翼面積七十五㎡、自重四・九六五トン、搭載量三・〇三五トン、全備重量八トン、三菱「金星」四十二型空冷式複列星型十四気筒離昇出力千七十五馬力発動機二基搭載、最高速度三百八十キロ、航続距離四千三百八十キロ、上昇力三千メートルまで八分二十秒、実用上昇限度九千百メートル、武装二十ミリ機銃(後上方旋回×一)、七・七ミリ機銃(後方両側旋回×二、下後方旋回×一)、爆弾八百キロ×一または二百五十キロ×二もしくは六十キロ×十二を懸吊という諸元、性能であり、九六式陸上攻撃機が海軍に制式採用された昭和十一年六月当時、海軍航空隊の主力は九六式艦上爆撃機九六式艦上戦闘機であったが、いずれも航続距離が短く、九六式陸上攻撃機のような高速力と長大な航続距離を持つ双発の爆撃機には護衛の戦闘機はいらないという「戦闘機無用論」が海軍航空隊関係者の間で生まれ、激論がかわされたほどであった。落下傘部隊に使用された長距離輸送機型を含めると合計千四十八機生産され、日中戦争のほぼ全期間と、後継機である一式陸上攻撃機にその主役の座を譲る太平洋戦争初期まで海軍の主力陸上攻撃機として活躍した。
九六式陸上攻撃機の初陣は、台北基地から南昌飛行場まで約七百十キロ、大村基地から南京まで約千百キロの遠距離渡洋爆撃という世界の航空戦術史上初の試みであり、海軍航空隊にとって長年の研鑽と訓練の成果を問われる作戦であったが、第一連空木更津航空隊では、東支那海を渡洋飛行中、雨中、雲中、低空飛行を余儀なくされ、また視界不良のために僚機を見失いない、わずか一日の攻撃で保有していた九六式陸上攻撃機二十機の内四機(行方不明二機、不時着水一機、着陸時破損一機)を喪失したばかりでなく、帰投した九六式陸上攻撃機の中にも被弾が激しく、翌十六日の戦闘に参加出来た可動機は、半数の十機という散々な有様であった。