無題

老兵は老いず、未だ現役です

老兵は老いず、未だ現役です 両親の家の電話は、未だダイアル式の黒電話です。老兵は老いません。もちろん現役です。 ここに受話器を置くと、懐かしのエリーゼのためが流れてきます・・・ 「ちょっとまってね、おーい、鈴木君から電話やど」という今は亡き父…

川西航空機(川西清兵衛)と中島飛行機(中島知久平)

森川がテストパイロットとして入社した川西航空機は、日本屈指の航空機製作会社であり、海軍と密接に結びついていたが、中島や三菱などとは、会社設立の動機、その生い立ち、経営者の理念が少し異なっていた。 それは、創業者である川西清兵衛が、飛行機の「…

日本における航空機開発の歴史

これは、日本における航空機開発の歴史に起因している。 一九〇三年(明治三十六年)十二月十七日、アメリカ・ノースカロライナ州キティホーク、キル・デビル・ヒルの荒涼たる砂原において、自転車製作技術者であるウィルバーとオービルのライト兄弟が、「ラ…

川西をはじめとした日本の航空機製作会社・・・

「殊に私の敬服に堪えない点は、社長は科学的技術の研究に重点を置かれた事であった。先ず航空機については、大正15年7月航空力学の権威であるAachen大学のKarman博士を招聘して風洞実験による航空力学の研究を開始され、わが国における航空…

森川、試験飛行で、あっとい言わす。

太田は老練なテストパイロットだったが、川西で定められた試験飛行の経験しかなく、九七式大艇の試験飛行に毎回一時間五十分から二時間かけていた。航空廠飛行実験部において国内外の最新鋭飛行艇を飛ばし、審査技術に磨きをかけていた森川とは、試験飛行へ…

森川、九七式大艇での試験飛行・・・

森川は、入社そうそう九七式大艇の試験飛行を命じられた。 森川の、八期飛行練習生、佐空、戦艦陸奥乗組み、横空、霞空、航空廠飛行実験部と申し分のない飛行歴と航空廠飛行実験部のお墨付きがあっても、海軍の期待を一身に集めた、それまでの飛行艇とは一線…

森川・川西航空機へ入社

三月に入ると、近藤勝治中佐と伊東祐満少佐は、出勤してきた森川を呼び、「森川、神戸の川西航空機へ行ってくれないか」と告げた。 話の内容は、川西から九七式飛行艇の後継機として十三試大型飛行艇の設計、試作に取りかかっているが、会社のテストパイロッ…

航空廠飛行実験部きっての名テストパイロット誕生

九月に入ると、森川にとって思い出深い「佐鎮号」ことダグラス飛行艇一号機が、佐世保から館山航空隊に向かう途中、濃霧のために福岡県の背振山に激突し大破炎上した。 パイロットを初めとした搭乗員五名は全員即死、客席の三十五名は、激突の衝撃で艇体が折…

生と死の狭間、テストパイロットの心構え

昭和十三年に入ると、佐世保航空隊の森川の前に、羽田の海洋飛行団時代の教え子である岡本大作が、海軍予備少尉の凛々しい姿であらわれた。 岡本大作は、大正三年八月、愛知県岡崎市上六名町に生まれ、岡崎中学から名古屋飛行学校を経て日本大学専門部工科機…

回首七十有餘年 人間是非飽看破

日本の敗戦とともに福民病院の本院、別院、居宅を初めとした莫大な資産をすべて国民軍に没収され、トランク二つを携えて故郷小豆島小部村に帰ってきた頓宮は、五ヶ月後の昭和二十一年九月、上海から引き揚げ日本各地に分散していた旧福民病院の医師や看護婦…

魯迅、頓宮寛の福民病院に我が子を託す。

国を、主義主張を超えて医療に邁進する頓宮の福民病院には、日本人のみならず、さまざまな人間が患者として訪れていた。 太平洋戦争開戦前、野村吉三郎駐米大使、来栖三郎特命全権大使を補佐し、日米交渉に奔走した外交官寺崎英成の妻であり、昭和三十二年夏…

魯迅が信頼した東洋一の上海福民病院

森川は、ダグラス飛行艇を操縦して上海へ通ううちに、同じ小豆島出身で、その頃、東洋一の個人総合病院と謳われていた上海福民病院「(FOOMING FOSPITAL)」の院長である頓宮寛と出会うことになった。 頓宮寛は、明治十七年二月二十二日、古…

小豆島出身、上海福民病院院長頓宮寛との出会い

大空では、パイロットの一瞬の判断が、不用意な操作が、飛行機に乗っている者すべての明暗を分ける。森川とは横須賀航空隊で同じ飛行艇パイロットとして親交のあった佐藤宗次は、九〇式二号飛行艇を使った夜間離着水訓練において、着水時に失速して海原に突…

森川、吹雪の飛行、あわや墜落か

森川もまた、あわや墜落かという事態に遭遇した。 十二月二十日、森川は九〇式二号飛行艇で大連までの飛行を命じられた。 早朝、佐世保を離水し大連に向かう九〇式二号飛行艇の機長は鈴木由次郎少佐(海兵五十一期)、左側の主操縦席には飛行艇分隊に配属に…

「空の英雄・片翼帰還の樫村寛一」と日本中にその名を轟かせた。

十二月九日、森川と同じ香川県人の樫村寛一三等航空兵曹が片翼で帰還して、一躍「空の英雄・片翼帰還の樫村」と日本中にその名を轟かせた。樫村は、大正二年七月五日生まれ、第二十四期操縦練習生出身であった。 九六式陸上攻撃機十五機を護衛していた十三空…

森川の渡洋飛行と間瀬平一郎空曹長の戦死

九月に入ると、森川と空林に、「佐鎮号(さちんごう)」と名付けられたダグラス飛行艇に高級参謀を乗せて上海へ飛ぶようにとの命令が下された。 森川と空林は、東支那海を一気に飛び越え、横浜航空隊が基地とする黄浦江竜華飛行場沖にダグラス飛行艇を着水さ…

昭和13年の海軍航空隊のすべて

その頃(第二次上海事変勃発前)の海軍の航空兵力は、陸上、海上両部隊合わせて常用機数は四百十八機、飛行機搭乗員は士官(少佐以下)百五十四名、特務士官及び准士官百五十名、下士官兵は偵察九百二十四名、操縦員千二名(水上機三百五十名・艦上機六百五…

「欧米の飛行機に追いつき追い越せ」というスローガンのもと

この第一連空鹿屋航空隊抗州空襲部隊第二小隊二番機の主操縦員として九六式陸上攻撃機の操縦輪を握っていたのは、森川の郷里小豆島四海村の隣村である土庄村出身の川崎昇三等航空兵曹(予科練第三期)であった。 川崎三空曹のことをよく知る鈴木富久二(乙種…

第二次上海事変勃発、森川渡洋飛行へ

中国大陸における戦雲は急を告げていた。 七月七日、北京西南の廬溝橋付近で日中両軍が激突。八月九日、上海で大山海軍大尉と斎藤一等水兵が射殺されるという事件が発生し、戦火は上海に波及。十三日には第二次上海事変が勃発した。 八月十四日、東支那海を…

航空廠飛行実験部でのテストパイロット時代を回想して

森川は、航空廠飛行実験部でのテストパイロット時代を回想して、 「大正時代の飛行機は発動機の馬力が貧弱で、飛び上がることさえ容易ではない飛行機もありましたが、昭和二年にリンドバーグが大西洋を横断して以来、飛行機会社が設計、試作した飛行機は、機…

飛行機の燃料に不可欠な四エチル鉛(テトラエチル鉛)

飛行実験部で九試中艇の実験主務をしていた伊東祐満少佐が、日本初の大型飛行艇実施部隊として昭和十一年十月一日に開隊された横浜海軍航空隊(浜空)の飛行長兼副長代理に補された。しかし九試中艇は九一式飛行艇の後継機としてロールバッハ式以来飛行艇製…

九六式艦上戦闘機との模擬空中戦

当時、この三菱機の設計、試作に携わっていた内藤子生(戦後Tー1ジェット練習機の主任設計者、東海大学名誉教授)は、激しい不意自転の対策について、こう回想している。 「赤城の山頂から静けさを求めて九十九里浜に向けて飛んでの実験、測定を終えたら太…

航空廠飛行実験部での各種試験飛行

飛行実験部で定められている各種試験飛行を習得した森川は、愛知時計電気と三菱で試作された二機の水上観測機(十試観測機)の試験飛行に携わることになった。 海軍において、試作機の計画、審査、制式採用までの過程は、おおむね次のように行われていた。 …

二式大艇で真珠湾攻撃・庄助ラッパこと笹生庄助

もう一人は、森川と同じ飛行艇パイロットとして、海軍航空隊にその名を轟かせた、「庄助ラッパ」こと、笹生庄助である。 昭和十七年一月、開戦劈頭の真珠湾攻撃で擱座や大破した艦船の修復を行っている真珠湾の海軍工廠に爆撃を加え、アメリカの反攻の出ばな…

操練同期・源田サーカスの二番機間瀬平一郎

翌日から森川は、ヴォートコルセア水上偵察機に計測員を乗せて航空廠飛行実験部で定められている各種試験飛行ーー◎離着水試験(海上旋回・水上滑走距離・視界・操縦性・離水速度・上昇角度・着水速度・着水角度・補助翼(エルロン)、昇降舵(エレベーター)…

局地戦闘機「紫電」誕生のエピソート

太平洋戦争中、空技廠飛行実験部において三菱の零戦や雷電、川西の紫電の試験飛行を担当していた帆足工大尉というテストパイロットは、豪快、竹を割ったような気性で、自分がこうと思ったら絶対に妥協しないという性格の持ち主であった。帆足大尉は、雷電の…

テストパイロットの天敵・「色気」

森川は、ヴォートコルセア水上偵察機そのものには乗ったことはなかったが、九〇式二号水上偵察機は、航空隊で馴染みの機であり、操縦性は軽快、上昇力に優れている。ただし、単フロート(浮舟)の底はシャープで、離着水の時、横風に気を付けなければならな…

第二の故郷横須賀追浜、航空廠飛行実験部

昭和十二年四月一日、海洋飛行団を辞した森川は、横須賀追浜にある海軍航空廠飛行実験部の門をくぐった。 森川を出迎えた飛行実験部水上機班の班長である近藤勝治中佐は、「森川、大学生相手で少しカンが鈍っているだろうから、ボートコルセア水上偵察機を使…

森川、テストパイロットとして歩み出す。

この七部門の中の一つである飛行実験部には、陸上機班、水上機班を問わず、全海軍航空隊から選び抜かれた名パイロットが一堂に会していた。 森川が誘われた水上機班には、日本最大の四発大型飛行艇である川西九七式大艇の初飛行をした近藤勝治中佐(後に少将…

テストパイロットの総本山海軍航空廠飛行実験部

海軍は、明治四十五年六月、海軍独自の航空機研究機関として「海軍航空術研究会」を設立、操縦技術の習得と飛行機購入のためフランスへ派遣していた金子養三海軍大尉がモーリス・ファルマン一九一二年型水上機を、アメリカへ派遣していた河野三吉海軍大尉が…