「空の英雄・片翼帰還の樫村寛一」と日本中にその名を轟かせた。

十二月九日、森川と同じ香川県人の樫村寛一三等航空兵曹が片翼で帰還して、一躍「空の英雄・片翼帰還の樫村」と日本中にその名を轟かせた。樫村は、大正二年七月五日生まれ、第二十四期操縦練習生出身であった。
九六式陸上攻撃機十五機を護衛していた十三空の九六式艦上戦闘機八機は、南昌上空において迎撃に上がってきた中国空軍のカーチス・ホーク戦闘機九機と反航で撃ちあった。すれ違う時に、樫村機とカーチス・ホーク機とがお互い避ける方向が同じになってしまい衝突、カーチス・ホーク機は墜落したが、樫村は左翼を三分の一以上を失いながらも、左翼の揚力の減少をフラップを下げることで補い、右翼のエルロンであて舵をあてながら上海まで六百キロを翔破し、飛行場の誰もが固唾を呑んで見守る中、スロットルの開閉だけで着陸を敢行、固定脚のため転覆したが、樫村は無傷で滑走路に降り立ったのである。
この樫村の奇跡的な生還に対して、時の海軍大臣米内光政から、「至大至剛、至玄至妙」という称賛の言葉と金鵄勲章及び特別善行章が贈られ、戦意高揚の意味合いもあり新聞紙上を大きく賑わせ、弘法大師空海ゆかりの香川県善通寺出身の樫村は、一躍時の人となったのである。
 佐世保航空隊では、樫村の片翼帰還についてさまざまな評価がなされた。
森川が、「パイロット一人養成するのに国は莫大な経費と労力をかけている。飛行機はまた造ることが出来るが、樫村のように優れたパイロットは一朝一夕に養成出来るものではない。樫村は翼を三分の一以上も失いながらも、よくぞ帰ってきた」と褒め称えたところ、森川の言葉を耳にした兵学校出の年若い戦闘機パイロットの一人が、「樫村は空の英雄ともてはやされているが、片翼で帰ってこれたのは結果論である。帰る途中に墜落するかもしれないではないか。それならば飛行場や格納庫に突っ込むべきであった」と異議を唱え、「貴様、命が惜しいのか」と、森川を罵倒したのであった。
「樫村の片翼帰還にはいろいろな評価がありました。よく帰ってきたという人もいれば、「生キテ虜囚ノ辱メヲ受ケズ」の教えの通り、なぜ飛行場や格納庫に突っ込んで自爆しなかったのかという人もいましたが、私は傷ついた飛行機でよく帰ってきてくれたと思っていました。生きて帰ってきて再びお国のために奉公するのが、パイロットの本分だと思っていました。国はパイロット一人を育てあげるのに莫大なお金と労力を支払っています。そのためにも生きて帰らなければなりません。私はそう思っていました。もっとも、命が惜しいのか、臆病者と罵倒されたこともありましたが・・・」
森川は樫村の片翼帰還に対して、こう回想している。