森川の渡洋飛行と間瀬平一郎空曹長の戦死

 九月に入ると、森川と空林に、「佐鎮号(さちんごう)」と名付けられたダグラス飛行艇に高級参謀を乗せて上海へ飛ぶようにとの命令が下された。
森川と空林は、東支那海を一気に飛び越え、横浜航空隊が基地とする黄浦江竜華飛行場沖にダグラス飛行艇を着水させた。
森川は、佐世保、上海間を日帰りで往復するうちに、ダグラス飛行艇パイロットを務めながら、経験の浅い飛行艇パイロットの訓練を命じられた。
 東支那海を渡洋できる飛行艇パイロットを、一人でも多く養成しなければならない。兵曹長である森川は下士官に、勝田少佐は士官パイロットにダグラス飛行艇の操縦を教えながら、佐世保・上海間を飛んだ。
 これは、海軍航空隊における航空機搭乗員の養成が少数精鋭主義をとっていたためであった。森川の第八期飛行練習生だけをとっても、入隊時二十一名だったものが、訓練中に操縦適性に欠けると判断され、六名が偵察や電信に回されて卒業時には十五名、兵学校出の飛行学生を併せても三十名に足りなかった。森川が霞ヶ浦航空隊を巣立つのと入れ違いに入隊してきた第九期飛行練習生は十九名、第十一期飛行練習生は入隊時四十八名、無事教程を終えて卒業したのは半分以下十八名であった。さかのぼれば、第五期飛行練習生は二十名入隊して十七名であった(第一期から七期までの卒業生全員でわずか七十名余りであった)。
 また、森川が霞ヶ浦で教員を務めた昭和八年の第二十一期操縦練習生卒業者は三十名。『大空のサムライ』の著者で撃墜王として有名な坂井三郎元海軍少尉の場合、昭和十二年の第三十八期操縦練習生志願者は約八千人、その中から操縦練習生予定者として選抜された者は八十名、飛行適性検査に合格したのが五十名、最終的に航空隊パイロットの証であるトンビのマークを左腕に付けられたのは、わずかに二十五名、実に三百二十倍という狭き門であった。この傾向は、日米間にきな臭い暗雲が立ちこめ始めた昭和十五年になっても続き、第四十九期操縦練習生水上機専修者の入隊者は五十二名、無事に卒業を迎えたのは半分の二十五名であった。さらに、パイロットになっても飛行機事故により、不具廃疾あるいは殉職者となった者も少なくなかった。
 しかし、パイロットを初めとした飛行機搭乗員を増やそうにも、まず教える教員、教官を確保し、初歩練習機、中間練習機などの機材、飛行場などの施設も増やさなければならない。飛行訓練を行えば行うほど、輸入に依存している航空機用燃料、潤滑油を大量消費する。海軍航空隊において航空機搭乗員の養成は少数精鋭主義であったというのは、正確に言えば、持たざる国日本では、少数精鋭主義をとらざるを得なかったのである。森川や勝田少佐自らがダクラス飛行艇パイロットを務めながら若手飛行艇パイロットの養成をさせるという海軍の苦肉の策が、そのことを如実に物語っていると言えよう。
 十一月に入ると、森川のもとに八期飛行練習生同期の間瀬平一郎空曹長が、中国大陸の大空に散ったという訃報がとどいた。
 五日、陸軍は上海方面の膠着化した戦線を打開するために抗州湾に上陸作戦を敢行した。
 当日は夜半より濃霧が発生するという悪天候であった。午前六時、海軍は上陸部隊を支援するために爆撃隊を上陸地点に向かわせたが、濃霧のためむなしく引き返さざるを得なかった。そこで考え出されたのが、高度三十メートルという超低空での偵察活動であった。
この偵察活動は友軍の進出状況と中国軍の位置を確認するのに極めて有効であった。以来、この偵察活動はしばしば用いられ、間瀬のような腕利きパイロットがその任に当たっていた。
 間瀬は、発動機が故障した乗機を沈着冷静に着陸させたことにより特別善行章を、方向舵を破損した乗機を無事安着させたことにより銀盃を授与されるなど、発動機の故障や機体の破損などのアクシデントにたびたび遭遇しながらも、そのたびに卓越した操縦で窮地をくぐり抜けていたが、運命の女神はいつまでも間瀬に微笑まなかった。
 十一月八日、松江、嘉興方面の偵察を命じられた間瀬は、九五式艦上戦闘機に乗り勇躍飛び立ったまま、燃料が切れる時間になってもついに帰還しなかった。同日、間瀬は特務少尉に特進、金鵄勲章を授与された。