航空廠飛行実験部きっての名テストパイロット誕生

  
 九月に入ると、森川にとって思い出深い「佐鎮号」ことダグラス飛行艇一号機が、佐世保から館山航空隊に向かう途中、濃霧のために福岡県の背振山に激突し大破炎上した。
 パイロットを初めとした搭乗員五名は全員即死、客席の三十五名は、激突の衝撃で艇体が折れて左右に裂けたため機外に投げ出され、十七名は燃料タンクから流れ出たガソリンで焼き尽くされた。救助された十八名も、十名は火傷のため収容先の小学校や病院で死亡、助かった八名も不具廃疾という大惨事であった。
 また、ダグラス飛行艇二号機は、航空廠から南洋庁航空部に引き渡され、横浜からサイパンへ向かう途中、父島南方海域で消息を絶った。操縦していたのは、森川のよく知る押川、北村のベテランパイロットであったが、艇体の剛性が脆いダグラス飛行艇での洋上着水では、大破沈没したのではないかと推測された。
昭和十四年一月、森川は召集解除となり、再び航空廠飛行実験部に戻った。
 同僚テストパイロットに、大関昇(戦後読売新聞機報部チーフパイロット)がおり、横浜航空隊から伊東祐満少佐が一足先に戻っていた。
 大空にいったん舞い上がれば、そこは、士官だから、下士官だからという軍隊の階級、地上のしがらみ、情実は一切通用しない。針の先ほども狂いのない科学的、合理的に貫かれた、ごまかしのきかない世界、頼れるのはテストパイロットとしての己の腕がすべてであった。
森川は、再び国内航空機製作メーカーで試作されている水上偵察機、観測機、欧米の飛行艇の試験飛行に携わり、飛行審査技術に磨きをかけ、「伊東祐満少佐と肩を並べる名飛行艇乗り」とか、「飛行艇の森川か、森川の飛行艇か」と飛行実験部で評価されるようになるにつれて、今まで以上に自分を厳しく律するようになった。
 森川は、航空廠飛行実験部で審査した水上飛行機に、次のような評価を下している。
 ◎チャンス・ヴォートO2Uコルセア複座水上偵察機ーー横風に弱く、離着水さえ気をつければ操縦性は軽快で上昇力もよい。
 ◎フェアチャイルド水陸両用機ーー木更津航空隊へ離着陸訓練に行ったが、高翼単葉の上に単発の発動機があるという特殊な型式の水陸両用機のため、陸上機としての離着陸はやさしいが、水上機としては発動機が単葉の上にあるので操縦性、安定性が悪く、発動機を全開にすると水をかぶって四、五秒は前がまったく見えない。離着水時、ポーポイズやジャンプに注意しないと失敗する。
 ◎コンソリデーテッドP2Yー1哨戒飛行艇ーースマートで操縦性能はよい。艇体後部の強度と耐波性が不足している。平水では素直な飛行艇。ただし操縦輪やフットバーなど、すべての動力装置は非常に重く、日本ではまず採用されない。
 ◎ダグラスDFー1J飛行艇ーー高翼単葉双発、全金属製の飛行艇。自動操縦装置、引き込み式翼端フロートなどの新しい技術が導入されているが、離着水時に波浪の影響を受けやすい。コンソリデーテッドP2Yー1飛行艇と同じように、平水での使用では素直で扱いやすい飛行艇である。
 森川は、日本の飛行艇は耐波性を重視しているが、アメリカの飛行艇はステップの形状や位置などから平水を標準としている。そのため平水では気持ちよく離水出来るが、少しでも波があると挙動が非常に不安定になる。また日本の飛行艇は、水の抵抗がもっとも最大となるハンプを超えると操縦輪を静かに引かなければならないが、コンソリデーテッドやダグラス飛行艇などは、逆にゆるめてやると気持ちよく離水する。引くとポーポイズを起こしてしまうなど、国によって異なる飛行機の設計思想や使用目的について分析している。
F五号飛行艇から始まり、F一号飛行艇、一五式飛行艇、ロールバッハ飛行艇サウザンプトン飛行艇、八九式飛行艇、九〇式一号飛行艇、九〇式二号飛行艇、九一式飛行艇フェアチャイルド水陸両用機、コンソリデーテッドP2Yー1飛行艇、ダグラスDF飛行艇など、国内外のさまざまな飛行艇パイロットを務めた森川ならではのこれらの分析は、十三試大艇二式飛行艇)の試験飛行と、その改修に注ぎ込まれることになる。