生と死の狭間、テストパイロットの心構え

昭和十三年に入ると、佐世保航空隊の森川の前に、羽田の海洋飛行団時代の教え子である岡本大作が、海軍予備少尉の凛々しい姿であらわれた。
岡本大作は、大正三年八月、愛知県岡崎市上六名町に生まれ、岡崎中学から名古屋飛行学校を経て日本大学専門部工科機械科入学、在学中に森川が教官を務める日本学生航空連盟に所属。昭和十二年四月、日大を卒業した岡本は、第四期海軍航空予備学生として霞ヶ浦航空隊に入隊。水上機専修者として九ヶ月の飛行訓練を終え、海軍予備士官に任官、即日召集を受け佐世保航空隊第二分隊(九四式水上偵察機分隊)に配属されたのであった。
海軍航空予備学生制度は、大学卒業後の兵役を海軍で予備士官として勤務させ、その後は官庁や民間会社などに帰し、有事の際の予備員とすることを目的とした制度であった。日華事変勃発にともない岡本ら十二名の第四期海軍航空予備学生は大学を卒業後、直ちに霞ヶ浦航空隊に入隊。九ヶ月間の教育を経て海軍予備少尉に任官と同時に予備役編入、即日充員召集となり、そのまま海軍に奉職することになったのである。
森川は岡本を見かけると、折り目正しく敬礼をした。
 海軍は厳然たる階級社会である。海軍に十二年間奉職しようと、森川は准士官の兵曹長、岡本は将校相当官の予備少尉であった。二年前の海洋飛行団では教官と教え子(大学生)という関係が、海軍では岡本は上官となり、立場が逆転したのであった。
 もっとも、ひとたび大空に舞い上がれば、士官だから、下士官兵だからという軍隊の階級、世間のしがらみは一切通用しない。大空は、パイロットとしての己の腕が、力量がすべての世界であった。岡本が森川と同じ一等飛行機操縦士、二等航空士の免状を有する士官パイロットといっても、森川から見れば霞ヶ浦を出たての雛鷲であった。九四式水上偵察機で飛行訓練に励む岡本は、上海や横須賀、霞ヶ浦などへの長距離飛行や、水上機母艦「神川丸」での水上偵察機楊収訓練などには、森川から教えを請い、さまざまな助言を受けたのであった。
奇しくも佐世保航空隊第二分隊には、岡本と同い年で、それから三十年後の昭和四十二年十月、新明和工業の新型飛行艇PXーS試作一号機のテストパイロットを務めることになる小金貢がいた。
 経験の淺い下士官パイロットに操縦を教えながら、佐世保、上海、青島間をダグラス飛行艇で飛んでいた森川のもとに、悲報が舞い込んだ。
 七月二十三日の早朝、航空廠飛行実験部の土橋頼実大尉、久保田守の操縦する九試中型飛行艇試作一号機が、発動機の集合排気管に穴があき、そこから噴き出たアフターファイアーに主翼の桁が炙られて真っ二つに折れたため、羽を閉じた蝶のような格好で木更津沖に墜落したのであった。
飛行機は、いつもパイロットの意のままになるとは限らない。いったんパイロットに背を向けた飛行機は、その瞬間、空飛ぶ棺桶と化す。それが試作機ならば、その可能性は極めて高くなる。飛行艇の試験飛行の場合、単座の戦闘機などとは違い、テストパイロットや搭乗員の外に設計技師や計測員などが乗り込んでいる場合が多い。この墜落事故は、海軍航空界の至宝と謳われていた島本克巳造兵少佐などを初めとして九試中艇を操縦していた土橋大尉、久保田ら搭乗員及び実験関係者合わせて十一人全員が殉職するという惨劇となった。
 森川はダクラス飛行艇を操縦して横須賀に向かい、航空廠飛行実験部で通夜の後、横須賀航空隊の大格納庫において催された九試中艇殉職者十一名の合同葬儀に参列した。
 殉職した久保田は、中国大陸の空に散華した間瀬とともに霞ヶ浦航空隊で同じ釜の飯を食べた八期飛行練習生同期のみならず、飛行実験部水上機班の同僚テストパイロットであり、森川とは家族ぐるみのつき合いをしていた間柄であった。
「私はこれまで多くの墜落事故を見てきましたが、その中でも一番堪えたのは久保田の事故です。久保田と私は操練の同期で優秀なテストパイロットでした。あの事故がなかったらもっともっとも活躍していたと思います」
「久保田さんとは家族ぐるみのおつき合いをしていました。私の家で主人とよくお酒を飲んでいました。愉快な方でしたが・・・」
森川と妻のツネは、久保田の殉職について、こう回想している。
その時のことを、森川は『大空一代』こう書き記している。
「当時海軍ではエフ五号、一五式飛行艇の時代であったが、広工廠で国産の中型飛行艇が試作され伊東祐満少佐と私が受け持って試験する事になった。一五式飛行艇と同じく離着水操作のやさしい飛行艇であったが、途中で私に召集令状がきて佐世保に行く事になった。飛行艇の試験を土橋大尉と久保田守氏に譲って私は佐世保航空隊でダグラス艇で上海佐世保間の連絡飛行に従事していた。
人の運命は一寸先は闇、中型飛行艇が木更津上空で火災を起こし墜落、全員死亡という大惨事を起こした。もし私が召集されなかったら・・・佐世保航空隊からダグラス艇で葬儀に参列したが、久保田氏の遺族に申し訳ない気がした。」(森川勲・『大空一代』より抜粋)
 これまで墜落事故にたびたび遭遇していた森川だったが、夫の遺骨の入った白木の箱を胸に抱きかかえ、二人の幼子とともに横須賀航空隊の大格納庫を後にした久保田の妻の蒼白な顔を思い出すたびに、
(他人事ではない。もし召集されていなければ・・・明日は我が身であり、妻や子の姿である)
と思わないではいられなかった。
「水上飛行機の試験飛行は波の静かな早朝に行われますので、私は試験飛行の前の日は酒を控え、早くから床についていました。なぜなら、テストパイロットは自分の仕事を代わってもらうわけにはいかないからです。体の具合や用事などで試験飛行を他の人に代わってもらい、もしその人が墜落したら、どの面下げて葬式に行けますか・・・自分に与えられた仕事は、何があっても務めなければなりません」
森川は、テストパイロットという仕事に対する心がけを、こう語っている。