森川・川西航空機へ入社

 
 三月に入ると、近藤勝治中佐と伊東祐満少佐は、出勤してきた森川を呼び、「森川、神戸の川西航空機へ行ってくれないか」と告げた。
話の内容は、川西から九七式飛行艇の後継機として十三試大型飛行艇の設計、試作に取りかかっているが、会社のテストパイロットが体調を崩して困っている。飛行実験部に対して、飛行艇のテストパイロットを派遣してくれないかという依頼が来ている。ついては森川、川西へ行ってくれないか、貴様なら十三試大艇のテストパイロットとして打ってつけであるというものであった。
森川が入社を薦められた川西航空機株式会社は、中島飛行機三菱重工に次ぐ国内第三位の民間航空機製作会社で、日本最大の四発巨人機である九七式大艇の生産に励みながら、前年の八月に海軍より命じられた十三試大型飛行艇(後の二式大艇)の設計、試作に着手していた。
昭和十三年八月二十一日、海軍は七ヶ月前に制式採用した九七式大艇に比べ、性能及び射爆兵装を飛躍的に向上させ、向こう三年後においても欧米の飛行艇に劣らぬ性能を有する新型飛行艇の試作命令を川西に発令した。
 これが後に制式採用されて二式飛行艇となる「十三試大型飛行艇(十三試大艇)」である。
 海軍の川西に対する十三試大艇の試作命令の内容は、乗員十人、最高速度は九七式大艇と比較して二十五パーセント増しの二百四十ノット(約四百四十四キロ)以上、巡航速度百六十ノット(約二百九十六キロ)、偵察過荷重時の航続力は巡航速度で四十パーセント強の四千浬(七千四百キロ)以上、攻撃過荷重時三千五百浬(六千四百八十二キロ)、武装は二十ミリ旋回機銃×五(内二連装動力銃架×四)、七・七ミリ機銃×四、一トン爆弾または八百キロ魚雷を二本懸吊、四基の発動機の内、片舷二基が停止しても水平飛行が可能なこと。さらに雷撃、爆撃を容易にするため操縦性は小型水上機並みでありながら、重量増加を伴う燃料タンクの自動漏洩防止処理などの防弾装置は強化という苛烈なものであった。
このように、十三試大艇への要求性能は、日本の航空水準のみならず、イギリス海軍がショート社に、アメリカ海軍がシコルスキー社、マーチン社に発注した飛行艇の要求水準をはるかに超えたものであり、この年の六月、北大西洋横断定期旅客便を成功させて画期的な大型飛行艇と呼ばれたボーイング314飛行艇が初飛行しているが、全備重量三十八・一〇二トン、航続距離五千九百三十キロ、最高速度三百四キロという性能であった。十三試大艇は、射爆兵装や防弾装置の設けられていない民間のボーイング314飛行艇よりも、航続距離で千四百七十キロ、最高速度は実に百四十キロも上回る性能を求められていたのである。
(自分が十三試大艇のテストパイロットに・・・)
近藤勝治中佐と伊東祐満少佐から話を聞いて、森川の胸は高鳴った。
 神戸の川西航空機は、霞ヶ浦の飛行練習生以来、羽田の海洋飛行団の二年間を除けば、一貫して水上機畑を歩いてきた森川にとって、主として小型水上機飛行艇を製作していたため、航空隊パイロットの間では「水上機屋」という別名で呼ばれている、馴染みの深い会社であり、十三試大艇が完成した暁には、飛行実験部で試験飛行をしていたコンソリデーテッドP2Yー1飛行艇やダグラスDF飛行艇はもとより、新鋭の九七式大艇を大きく凌駕する世界一の飛行艇となる。川西に入社を勧められたのは、願ってもない話であった。
 航空廠飛行実験部を辞し、羽田から西宮に居を移した森川は、昭和十四年四月一日兵庫県武庫郡鳴尾村にある川西航空機本社に赴き、川西龍三社長から、年若い新入社員とともに飛行検査部技師(テストパイロット)としての辞令をもらった。
 森川が入社した頃、川西航空機飛行検査部には、テストパイロット(川西ではテストパイロットのことを飛行士と呼んでいた)として、小型機担当の乙訓輪助、飛行艇担当の太田与助がいた。
乙訓輪助は、大正十五年志願第十四期飛行練習生出身、霞ヶ浦航空隊第五分隊(戦闘機)に配属された後、空母赤城の戦闘機分隊、館山航空隊、霞ヶ浦航空隊において第一期予科練の実務教育の教員を経て昭和十一年に海軍を満期除隊、川西にテストパイロットとして入社という戦闘機乗りであった。年こそ森川より一つ下だが、霞ヶ浦では六期後輩であった。また、体調を崩していた太田与助は、大正十二年志願九期飛行練習生、森川と同じ飛行艇乗りであったが、八期飛行練習生の森川は、新参者ながら二人よりも飛行歴は長かった。