森川、九七式大艇での試験飛行・・・

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森川は、入社そうそう九七式大艇の試験飛行を命じられた。
森川の、八期飛行練習生、佐空、戦艦陸奥乗組み、横空、霞空、航空廠飛行実験部と申し分のない飛行歴と航空廠飛行実験部のお墨付きがあっても、海軍の期待を一身に集めた、それまでの飛行艇とは一線を画す新型飛行艇のテストパイロットである。いわば川西の社運を賭けている。森川の腕前を、実際にこの目で見てみなければということであった。
 試験飛行当日、社長の川西龍三以下会社役員、橋口義男設計課長、菊原静男係長を初めとした十三試飛行艇に携わる技師達が、武庫川尻の鳴尾製作所第二滑走台に集まっていた。
 その十三試大艇に携わる川西の設計陣は、橋口義男設計課長(後に部長)のもと、主翼・尾翼関係ーー浜田栄(後に設計課長)、竹内為信、羽原修二。艇体関係ーー戸塚栄、大沼康二。発動機関係ーー河野博。操縦装置・油圧その他雑装備関係ーー勝部庫三、奥田博。電気系統ーー進藤鈔。武装・重心見積もり及び艤装関係ーー足立英三郎。風洞・水槽試験関係ーー田中太三郎。空力・水力関係ーー菊原静男が担当する。と同時に、菊原が全体の統括をとる設計主務者という構成であった。
飛行服に身を固めた森川は、鳴尾製作所第二滑走台(ポンド・滑り台とも呼ばれ、飛行艇を引き揚げる際に使用する斜面のコンクリート通路)の九七式大艇に乗り込んだ。
九七式大艇を官試乗したのは、森川を十三試飛行艇のテストパイロットとして川西に送り込んだ航空廠飛行実験部の近藤勝治中佐であった。森川は、飛行実験部において九七式大艇を試験飛行し、その長所、短所は掌を指すがごとく知悉していた。
 主操縦席には森川、副操縦席には太田が座った。
森川がセンターパネルの点火スイッチに手をのばし、外側一番、四番発動機を起動させると、キューンキュン、ダダ、ダダダ、ブルンブルンという起動音が響きわたり、飛行艇特有の上方に向いた集合排気管や全開にしたカウルフラップから黒煙がボッ、ボボッと噴き出し、住友ハミルトン定速可変ピッチ三翅プロペラがあたりを震わす轟音とともに回り始めた。
 整備長の笛の合図で、ウインチが沖合に浮かぶ飛行艇繋留用浮標の滑車と九七式大艇の機首とを繋いでいるロープを巻き始めると、九七式大艇は第二滑走台をゆっくりと滑り降りて汀に浮かんだ。すぐさま胸までゴム引きの防水服をまとった整備員が海に入り、九七式大艇の艇部両側に取り付けられている地上移動用運搬車と尾部運搬台車を取り外した。
森川は、九七式大艇を工場沖の離水海面へと誘い、内側二番、三番発動機を起動させ、発動機を一基ずつ二千三百回転まで回して、不連続音、きしみ音、叩き音などの異常音が出ていないか、スムーズに吹き上がるかどうかを確認すると、インスツルメントパネルの各種計器類、昇降舵、方向舵、補助翼、フラップ、修正タブなど動力レバーの動き具合を入念にチェックした後、機首を風上に向け、フラップを下げ角度十五度に、外側の一番、四番発動機を吹かして水上滑走の速度を上げていき、頃合いを見計らい内側の二番、三番の発動機のスロットルをゆっくりと開いた。
九七式大艇の離水操作は、アメリカのコンソリデーテッドPB2Yコロナドが同じ四発飛行艇でありながら、メインパイロット一人で操縦するのと異なり、原則として主操縦員が外側一番、四番発動機で方向を修正しながら水上滑走をし、副操縦員が頃合いを見計らい内側二番、三番発動機の回転を上げて離水するというのが通常であったが、森川の腕前を見るということであり、森川は一人で操作したのであった。
 やがて水上滑走の速度が六十五ノットに達し、ハンプを超えて機首が下がった瞬間、森川は副操縦席の太田飛行士に視線を走らせた。
太田ほどのテストパイロットに言葉はいらない。森川と太田が操縦輪を静かに引くと、九七式大艇はステップから水滴をまき散らしながら浮かび上がった。
離水の際に使われる吸入圧力(ブースト圧)プラス二百、発動機回転数二千五百五十回転は、オーバーヒートやバルブサージングなどによる発動機の損耗を抑えるために六十秒しか使えない。森川は、四基の発動機を二千三百五十回転の連続最大出力に同調させながら九七式大艇を上昇させ、会社が定めた全力上昇、最高速、各種の安定試験を息つく間もなく行い、わずか一時間足らずで試験飛行を終えた。