八九式飛行艇の試験飛行、森川、霞ヶ浦海軍航空隊へ

離水に失敗した三番機の主操縦員は、佐世保航空隊では飛行艇パイロットとして第一人者の空林永治空曹長であった。空林のようなベテラン中のベテランでさえ、思わぬアクシデントに遭遇して事故を起こしてしまう。飛行艇において、燃料満載の過荷重時状態での離水は、まさしくパイロット泣かせであった。
日が昇るにしたがい日差しはますますきつくなった。
 森川は、発動機のスイッチを切ると、うだる暑さに全身を汗みどろにしながら風が出るのを辛抱強く待った。
二時間後、風が海面を撫でるように吹き始めたが、まだ限界まで燃料を積んでいる状態で離水するには足りなかった。
 飛行艇の総重量が増えるにしたがい、離水するには大きな揚力が必要となる。水上機、陸上機を問わず飛行機は離陸速度に達しなければ、絶対に飛び上がらない。発動機の馬力が貧弱な以上、大きな揚力を生み出すには、強い向かい風を受けるか、艇体を軽くするしか手だてはなかった。
 これまで風が弱い場合や飛行艇を初めて操縦するような新米パイロットの離水を助ける手段として、老練なパイロットの操縦する飛行艇を水上滑走させ、この飛行艇の巻き起こすプロペラ後流を利用して、後に続く飛行艇を離水させるという方法が試みられていた。また、水上滑走を続けて燃料を消費するか、海上に放出するかして離水していたが、それでは航続力の試験飛行にならない。
 滑走台で離水を見守っていた分隊長より、「離水可能ナリヤ」という手旗信号が送られてきた。
(風が弱い、せめて五メートルは欲しいが・・・行くか)
 意を決した森川は、搭乗整備員に発動機の始動を命じた。
 森川は、発動機の調子を確かめた後、八九式飛行艇の機首を風上に正向させると、スロットルレバーをゆっくりと開いた。
八九式飛行艇は、二基の広廠一四式発動機の咆哮とともに水上滑走に移ったが、海原に響きわたる発動機の轟音とは裏腹に、速度がもどかしいほど上がらず、操縦輪やフットバーに手応えが感じられなかった。
発動機の性能は、気温と湿度、高度に大きく左右される。気温と湿度が高くなればなるほど空気密度は小さくなり、シリンダーの中でガソリンを燃焼させるために必要な酸素量が不足する。その結果、発動機の出力は低下し、離水距離は延びる。このままではいたずらに水上滑走を続けるだけで、離水することは出来ないと判断した森川は、機首の上げ下げを繰り返して速度をつけようとした。
森川は、副操縦員とともに、飛行艇パイロットの間で「櫓漕ぎ」と呼ばれる、操縦輪を押す、引くという動作を繰り返した。
エルロンで左右の傾きに注意を払いながら、操縦輪を押す、引くを繰り返していると、しだいに速力がつき、手応えのなかった三舵に、少しずつ舵圧が感じられるようになった。
離水速度が近づくにつれて機首が上がり、操縦輪やフットバーが、ぐっと重くなった。
 燃料満載で海中深く脚の入った飛行艇は、復元力が大幅に低下している。ここで操縦輪を引くタイミングを一つ間違うと、失速して機首から海に突っ込んでしまう。
「燃料満載状態で離水してすぐに着水することは、燃料の重みと着水の衝撃で艇体が砕ける怖れがありましたので、禁止されていました」
 森川によると、いったん海面から浮かんだ燃料満載の飛行艇を、直ちに着水させることは、どのようなことがあっても、きつく戒められていたとのことである。
これは、陸上機、水上機の別なく飛行機全般にいえることで、耐空性基準において、最大離陸重量より、最大着陸重量が小さくなるように設計されているからである。離陸の時にかかる荷重よりも着陸の際に降着装置や機体にかかる荷重は、はるかに大きく、着陸時には、出来る限り機体の重量を減らして軽くしなければならない。離陸直後、何らかのアクシデントで着陸しなければならなくなった場合、燃料を放出するか、燃料を消費するために、最大着陸重量になるまで飛び続けなければならなかったのは、このためである。
森川は、ハンプを超え、機首が下がった瞬間、慎重に操縦輪を引いた。
八九式飛行艇は、ステップから水飛沫をまき散らしながら、ふっと浮き上がった。
離水して空に浮くことは浮いたが、一瞬も気が抜けなかった。八九式飛行艇は、かろうじて飛んでいるようなものであった。
(無理に高度をとろうとはせず、まず気速をつけなければならない)
森川は、同郷の飛行艇パイロットである空林永治空曹長の言葉を復唱した。
離水したならば、性急に高度をとろうとはせず、水平直線飛行して気速をつけた後、ほんの少し高度を上げる。また水平直線飛行して気速をつけた後、ほんの少し高度を上げる。無理はいけないというのが、空林の助言の一つであった。
一五式飛行艇による佐世保・台湾間無着水試験で失態を演じた空林は、森川が制式採用されたばかりの八九式飛行艇の航続力試験のために横須賀から大村まで飛ぶということを知ると、森川にさまざまな助言を与えていたのである。
森川は、空林の助言を守りながら、八九式飛行艇の高度を二千五百メートルまで上げ、観音崎を右手に見ながら、三浦半島城ヶ島ーー伊豆半島石廊崎ーー静岡県御前崎ーー渥美半島伊良湖岬ーー三重県志摩半島大王崎と太平洋岸を西に向かって順調に飛び続けた。
 横須賀から四百キロほど飛んだ和歌山の潮岬を過ぎた頃より、主翼に細やかな振動が走り始めた。
飛行機は、わずかでも異常が発生すれば、機体や翼に振動が走る。
 少し前から左発動機の回転が少しずつ落ちていたことに気づいていた森川は、左発動機のガソリンと空気の混合比を変え、点火時期を微調整して発動機の同調(二つの発動機の調子を合わせる)をとっていた。
 飛行機の発動機は、ガソリンと空気を混ぜ合わした混合気を、気化器を使ってシリンダー内に吹き込み、その混合気を点火プラグの火花で爆発させて出力を発生させるレシプロエンジンである。離着陸の高度0メートルからその飛行機の上昇限度まで、無限大の変化を伴う高度差で使用されるため、パイロットは気圧の低い高空へ上昇したり、気圧の高い低空に降下したりする際に、点火時期と空気と燃料の混合比を調整して、搭載されている発動機のもっとも燃焼効率のよい混合気を作り出さなければならなかった。燃料比が多すぎる混合気の場合、不完全燃焼から出力は低下、発動機は異常振動する。パイロットは、これを防ぐためにミクスチャーコントロールレバーを調節して燃料の混合比を減らさなければならない。逆に燃料の比率が薄すぎると、オーバーヒートしたり、シリンダー内で異常燃焼(デトネーション)して発動機が焼き付いてしまう。カム軸と連動したピストンの上死点の少し手前で点火プラグから火が飛び、気化器から送り込まれたガソリンと空気の混合気(森川によれば十三対一が理想)を爆発させるのが、最良の燃焼状態であった。
 飛行機搭乗員の間で、「発動機の不調は、まず燃料系統を」というのが鉄則であったように、発動機の不調の原因の大部分は、まず燃料系統、次いで電気系統の故障であった。
(燃料か・・・いや)
 燃料タンクのガソリンに塵芥や水などの不純物が混じっていれば、気化器(キャブレター)の燃料流入ニードルなどに付着して発動機は咳き込む。しかし、積み込んでいるガソリンは鹿皮で丹念に漉され、不純物は取り除かれているはずであった。また燃料注入口の蓋の隙間などから水分が浸透したり、タンク内の水蒸気が凝結してガソリンに水が混じらないように、飛行後は燃料を満タンにしておくことが義務づけられていた。陸上機と異なり、海原や湖水を離着水する水上機では、特に注意が払われていた。
搭乗整備員が、燃料タンクの切り替え、燃圧の確認などに躍起になっていたが、左発動機を吹かしても、回転は上がらず、逆にドッ、ドッ、ドッという振動が大きくなるばかりで、スロットルに発動機がついてこなくなった。
(点火栓(プラグ)・・・)
 やがて左発動機は、時折咳き込むようになり、そのたびに飛行艇は左に傾き、横滑りを始めた。
 点火プラグの不良による失火や、点火時期が狂いピストンが下がり始めた時点での発火は、フリクションを増大させて出力低下を招くばかりでなく、シリンダーの中や排気管内で異常燃焼を引き起こし、発動機を焼損してしまう。
振動とブスッ、ブスッというという不気味な咳き込み音とともに、左発動機の気化器や集合排気管から白煙が尾を引いて流れ始め、プロペラは風圧で力無く回っているだけとなった。
 いくら右発動機を全開にしても、片肺では飛行を維持することは出来ない。森川は激しく振動し、左に横滑りしようとする八九式飛行艇を、なだめすかせるようにして高度を下げ、海岸近くの太平洋上に緊急着水させようとした。
飛行中に発動機が故障すると、プロペラは故障の個所によってナギナタ状態に膠着するか、速度の二乗に比例する空気抵抗により風車状態(ウインドミル)となって遊転を始め、主翼と共鳴して激しい振動を引き起こす。飛行中、プロペラのピッチを変えてブレードを飛行方向に平行させ空回りを防止する「フルフェザー」は、日本ではまだ開発されていなかった。
このフルフェザーを開発したのは、飛行機の先進国アメリカであった。
 昭和十四年十月、海軍は十三試陸上攻撃機のサンプルとするために大日本航空をダミー会社として、ダグラス社の試作四発大型旅客機DC4を購入した。このDC4を羽田飛行場で公開飛行をした時、フルフェザー・プロペラを初めて目にしたのであった。プロペラのピッチを最大角九十度まで変えることにより、空気抵抗をなくすことが出来るフルフェザーを装着したプロペラが開発されたからこそ、アメリカで四発大型機の開発に一層の拍車がかかったのである。地味ではあるが、フルフェザーはプロペラ飛行機の歴史の一ページを飾る画期的な装置であった。