操練同期の間瀬平一郎との再会

その頃、横須賀航空隊には、第八期飛行練習生同期として霞ヶ浦で同じ釜の飯を食べた間瀬平一郎が陸上機班戦闘機分隊におり、一三式艦上攻撃機パイロットとして、派手なスタント飛行の練習を披露して、空を仰ぐ万人から喝采を浴びていた。
間瀬は、第八期飛行練習生の号長、卒業時には御賜の銀時計を拝受。霞ヶ浦航空隊で飛行練習生の教員を務めた後、森川と同じく昭和五年十二月一日、横須賀航空隊陸上機班戦闘機分隊に配属され、一三式艦上攻撃機の操縦員の教員を務めていた。
昭和六年に入ると、海軍は健軍以来その模範としていたイギリスからチャッペル大佐、ウィンゲート大尉の二教官を招聘し、横須賀航空隊において英国式空中戦闘と射撃の講習会を一ヶ月余りにわたって催した。いつしかその講習会が終わると、一三式艦上攻撃機三機編隊による編隊特殊飛行の練習が始まるのが恒例となっていた。
 編隊特殊飛行を嚮導する一番機は、イギリス帰りの戦闘機分隊長小林淑人大尉、二番機は間瀬平一郎、三番機は青木與(九期飛行練習生出身)の両下士官パイロットであった。垂直旋回、低空での急降下、三機が三つどもえになってのスパイラルダイブを披露して、大空を仰いでいる者を「空中サーカス」と驚かせていた。
 その後、小林大尉の後を岡村基春、源田実大尉が分隊長となり、飛行機も一三式艦上攻撃機から新鋭の九〇式艦上戦闘機へと変わったが、間瀬は「岡村サーカス」、「源田サーカス」の三羽ガラスとして、特命検閲の観兵式、エチオピアの特使、満州国皇帝葉山御用邸訪問、各国高官の横須賀航空隊来隊、羽田飛行場での報國号献納式のページェント飛行などに特殊飛行を披露して一躍有名になったのである。
 間瀬が、その特殊飛行の妙技を遺憾なく発揮した報國号の献納式というのは、昭和七年一月二十八日に勃発した第一次上海事変を契機として、国民各階層からの献金によって購われた各種兵器に、海軍は「報國号」、陸軍は「愛國号」という名称を付け、一定数の数がまとまると一ヶ所に展示、献金者を招待して華々しい献納式典を催し、国民の愛国心を鼓舞していた。報國号の第一号機は、その年の三月三日、川西航空機の鳴尾工場において製作され、献納された川西九〇式三号水上偵察機であり、献金者は川西の系列会社である日本毛織株式会社の役員と従業員一同であった。この「報國ー一號・ニッケ號」と名付けられた九〇式三号水上偵察機は、羽田飛行場に集まった大勢の見物人の目の前で、横須賀航空隊の水上機パイロットによってページェント飛行が行われ、これ以後太平洋戦争末期までに千七百機余りが献納された。
昭和七年八月三十日、森川は故郷小豆島において、同じ四海村の上川智恵子と華燭の典を挙げ、東京市蒲田区羽田町一丁目千六百八番地九に新居を構えた。妻となった智恵子は、大正二年生まれの二十歳、森川より六歳年下の、何事についても控えめな性格であった。
森川は新妻との新婚生活を楽しむ間もなく九月に入ると、一五式飛行艇の後継機として昭和四年に広海軍工廠において設計、愛知時計電気で製作され、三月に制式採用されたばかりの八九式飛行艇の航続力試験のために、横須賀から大村航空隊まで飛ぶように命じられた。
 八九式飛行艇(H2H1)は、複葉羽布張り全金属製艇体、乗員六名から七名、全幅二十二・一四メートル、全長十六・二八六メートル、全高六・一三メートル、主翼面積百二十・五㎡、自重四・三六八トン、搭載量二・一三二トン、全備重量六・五トン、翼面荷重五十三・九㎏/㎡、馬力荷重五・四一五㎏/hp、燃料搭載量二千八百七十リッター、潤滑油搭載量百五十リッター、広廠一四式液冷W型十二気筒五百五十馬力発動機二基搭載、プロペラ型式木製固定ピッチ四翅、直径三メートル、最高速度百九十一・八キロ、巡航速度百二十九・六キロ、着水速度九十七・四キロ、上昇力三千メートルまで十九分、実用上昇限度四千三百二十メートル、航続時間約十五時間、武装七・七ミリ旋回機銃×四、二百五十キロ爆弾二個を懸吊という諸元、性能であった。
一五式飛行艇の後継機である八九式飛行艇は、イギリスより購入したサウザンプトン飛行艇を参考にした、海軍初の全金属製艇体であった。また翼組みは一五式飛行艇を生かしたもので、その設計思想はF五号飛行艇までさかのぼるという堅実な基本設計であったが、方向安定性、昇降舵の利きの不足、発動機の冷却不良などにより、十七機(広廠十三機・愛知時計電気四機)が製作されたに過ぎなかった。
 その頃、試作機や新型機の各種試験飛行は、海軍航空隊の総本山ともいうべき横須賀航空隊で行われていた。昭和七年四月一日に「航空廠令」が発布され、横須賀航空隊に隣接する地に総合航空実験及び研究機関として航空廠が創設されることになったが、施設の建設に取りかかったばかりであった。
水上機の試験飛行は、波静かな早朝に行われる。森川は、日の出とともに滑走台上の八九式飛行艇に乗り込んだ。
森川が八九式飛行艇を滑走台上から海へと誘うと、朝日を受け銀色に輝く艇体は、鹿皮で丹念に漉され水分や塵芥を取り除いた三トン近いガソリンを積み込んでいるため、喫水を海面深く沈めた。
九月のどんよりとした朦気が追浜沖の離水海面に漂っていた。
 燃料満載時の過荷重離水には、もっとも不向きなデッド・カーム(無風で波がまったく立っていない海面状態、べた凪ともいい、離水時には機首が海面に貼りつくようになり揚力がつきにくい。着水時には高度の判定が難しい)であった。
 全備重量に対して低馬力の発動機、離水能力を高める装置の稚拙なその頃の水上飛行機は、風がないと、いたずらに水上滑走をするばかりで、なかなか離水しなかった。
 離水距離は風速と反比例する。向かい風が強ければ強いほど、揚力は大きくなり短時間で離水し、その距離は短くなる。飛行艇にとって理想的な離水海面は五メートルから六メートル前後の風が吹きながらも、波が高くないことであった。海面が荒れていると、風上に向かって発動機を全開、後少しで離水するというところで波にあおられて、ぐっと速度を落としてしまう。下手をすれば、ウォーター・ハンマーで艇底を傷めてしまう怖れがあった。また発動機全開の離水運動を繰り返せば、飛行する燃料を消費するだけであった。
操縦輪を握る森川の脳裏を、三ヶ月前の六月に佐世保航空隊において敢行された一五式飛行艇による佐世保・台湾間無着水試験の無惨な結果が横切った。
それまで佐世保から台湾へ飛ぶには、一度南下して沖縄に立ち寄り、燃料を補給しなければならなかった。台湾までの無着水飛行は、日本海、東支那海の守りの要であり、中国大陸への玄関口である佐世保鎮守府にとって、用兵作戦上の念願であった。
 昭和七年四月、佐世保・台湾間無着水試験のために、広海軍工廠において艇体と発動機に改良を加えた三機の一五式飛行艇佐世保航空隊に配備された。
これら三機の飛行艇搭乗員は、二ヶ月に及ぶ飛行訓練を行い、試験飛行当日は佐世保鎮守府司令長官中村良三中将直々の激励を受け、勇躍台湾基隆を目指して、一番機、二番機は相継いで離水したが、三番機は一時間たっても水上滑走するばかりで、どうしても離水することが出来ず、鎮守府の幕僚から、「飛行艇とはあんなに飛び立てないものなのか」という言葉が漏れたほどであった。
その日は旋回して三番機の離水を待っていた一番機、二番機の燃料が少なくなり試験飛行は断念され、翌日、佐世保軍港外の風の強い海面まで水上滑走して離水した三機の一五式飛行艇は、東支那海を渡洋し無事台湾基隆港に着水した。
 しかし、到着した翌日から三日間にわたって雨が降り続いた。
 基隆港には、飛行艇を陸揚げする施設がなく、港内の浮標に繋留していた三機の一五式飛行艇は三日間雨ざらしとなった。
 一五式飛行艇は木製艇体であったため気密性が悪く、陸揚げせずに長時間海に繋留していると、海水浸透により艇内にアカ(海水)が溜まる。その上、連日雨に打たれ、翼や艇体が水を含んで重くなっていた。
ようやく五日目になって天候が回復、佐世保に向かって一番機、二番機は基隆港を相継いで離水したが、またしても三番機が離水出来ず、港外に出て離水運動中に浮流物と接触し、艇底を破損してしまった。さらに、旋回しながら三番機の離水を待っていた一番機と二番機も復航の途中燃料が足らなくなったため、急遽沖縄に立ち寄り燃料を補給して佐世保に帰り着くという散々な結果に終わり、その上、艇底を破損した三番機は発動機を取り外して焼却処分したため、航空本部で大問題となっていた。