森川、飛行艇パイロットとして横須賀海軍航空隊へ

森川が飛行艇パイロットとして訓練に明け暮れていた昭和三、四年頃の日本の航空界を、ジャーナリストの高木健夫は、こう述べている。
「その年の五月、土浦に転任すると、そこに霞ヶ浦海軍航空隊が待っていた。土浦通信部というところは、まるで霞ヶ浦航空隊に従軍しているような仕事の連続であった。当時はほとんど毎日のように海軍機の墜落事故があった。いま考えてみると、きびしい、というよりも無茶な訓練のような気がする。なにせ、航空隊司令だった山本五十六少将が航空一本槍で航空隊を育てて館山に転任したばかりの時だったので、猛烈な訓練だった。
その頃の海軍の飛行機は、もううろ覚えだが、練習機はアブロ、一三式艦上攻撃機、十年式艦上偵察機飛行艇はドルニエ・ワールとやらが新鋭機、という時代。飛行艇をのぞいては例外なく複葉機で、発動機はイスパノ・スイザの時代。南極探検にイタリアのノビレ少将が使ったという半硬式のN3号という飛行船がまだ幅を利かせていた時代である。いわば日本の航空界は揺籃期をすぎてようやく技術導入の時期にあり、昭和七年以降の「自立の時代」を迎えようとしてはりきっていた頃なのである。
日本海軍の飛行機は連日のように墜落していたが、世界の航空界は世界一周早回り時代とあって、つぎからつぎと碧眼のパイロットが、中には女流もまじって、霞ヶ浦へやってきた。リンドバーグ夫妻の飛来、ハーンドン、パングボーンの太平洋飛行の二年前、ドイツの飛行船、ツェッペリン伯号が世界一周飛行にフリードリッヒス・ハーフェンを出発、シベリア経由で霞ヶ浦に飛来した。昭和四年である。エッケナー船長以下の乗組員は昭和四年八月十五日出発以来一万一千キロを百一時間五十三分で翔破して当時の新記録を打ち立てた。ツェッペリン伯号は東京横浜を上空から訪問し、長さ二百三十五メートル、直径三十メートルの巨大な銀色の葉巻のような姿で、地上の日本人をびっくりさせた。」(『読売新聞に見る昭和の40年』・あるジャーナリストのノートから抜粋)
 高木が新鋭機と回想しているドルニエ・ワール飛行艇とは、神戸の川崎造船所がドイツのドルニエ社から同社のドルフィン、DELリベレなどとともに輸入し、海軍の試験飛行に供された全金属製艇体、高翼単葉の斬新なスタイルを誇る旅客飛行艇であった。乗組員四名、ロールスロイス社製「イーグル」三百五十馬力発動機二基を前後に並べて主翼上に設け、乗客を十一名乗せながら最大速度百六十キロ、巡航速度百四十キロで十時間飛び続けることが出来、我が国最初の航空無線装置を搭載していた。また、これとは別に神戸の川西航空機日本航空株式会社通じて七十万円という巨費を投じてドイツからこのドルニエ・ワール飛行艇を輸入し、昭和二年六月六日、川西のテストパイロット後藤勇吉操縦士の手で初飛行を行った。
 この川西のドルニエ・ワール飛行艇は、「なにわ号」と名付けられ、八月二十六日午前十一時五分、「航空航法による遠距離海洋飛行の学術的研究」という名目で博多を離水、後藤、阿部の正副操縦士、機関士、通信士というクルーのドルニエ・ワール飛行艇は東支那海を五時間二十五分で翔破し、日本時間の午後四時半、上海に無事着水するという記録を樹立し、その卓越した性能を披露したが、海軍に制式採用されることなく、民間の旅客飛行艇として活躍した。
高木健夫が述べているように、昭和初期の日本の航空機製作会社は、外国製航空機のパテントを買い入れ、招聘した外人技師の指導のもと、機体や発動機の製作をしていたのである。
昭和五年十二月一日、森川は佐世保航空隊から海軍航空隊の発祥の地であり、日本最大の航空隊である横須賀海軍航空隊(通称・横空)に転勤となった。
 明治四十五年六月、海軍は航空術研究会の設立と同時に、「鎮守府や軍港を敵の攻撃から守り、かつ艦隊とともに行動するために大海原に離着水できる水上機の発達こそ海軍航空隊の将来」という考え方にもとづき、日本最大の軍港である横須賀軍港の北方に位置する追浜の地に、木造格納庫と事務所一棟、水上飛行機の滑走台を設けた。追浜と夏島との間の海面は一年中を通じて波静かで、水上飛行機の離着水には好都合であった。これが、横須賀航空隊のルーツである。
日本の陸海軍航空隊が、戦争の勃発とともに開隊されたのは、欧米各国と同じであった。
 大正三年八月二十三日、日本は同盟国イギリスの要請に応え、「東洋の真珠」と呼ばれていた中国山東半島の青島や中部太平洋ミクロネシアの島々に権益を持つドイツに宣戦を布告、陸軍はモーリス・ファルマン式飛行機四機、ニューポールNG飛行機一機、気球一個、有川鷹一工兵中佐を航空隊長に、徳川好敏大尉以下八名の操縦将校、三名の偵察将校からなる飛行隊を急遽編制して三東省龍口に、海軍は輸送船「若宮丸」を水上機母艦に改造し、モーリス・ファルマン式水上飛行機二機、山綱太郎中佐を航空隊長に、操縦士官十三名を乗せて膠州湾外に進出した。
 陸海軍とも飛行隊の当初の任務は、青島に碇泊するドイツの艦船や要塞の偵察であった。
 九月五日、海軍の金子養三大尉、和田秀穂大尉の操縦する二機のファルマン式水上飛行機は、青島要塞の上空を飛び回って綿密な偵察を行い、機体に砲弾を改造した爆弾をロープで吊るし、ナイフでロープを切ってドイツの砲台や砲艦に投弾するという爆撃を敢行し、第二艦隊司令長官加藤定吉中将より、「勇敢ナル偵察ニヨリ敵情ヲ詳悉シタルコトヲ喜ビ、特ニ敵弾ヲ冒シテ爆弾投下ヲ決行シ彼ノ心胆ヲ寒カラシメタル三勇士ノ動作ヲ壮トスルモノナリ」と褒め称えられた。一方、陸軍の徳川好敏大尉はドイツ軍のルンプラー式飛行機のパイロットとピストルで撃ちあうという、初めての「空中戦」を行った。この時、ドイツ軍のルンプラー式飛行機との識別のため、陸海軍機の主翼と機体に日の丸が初めて描かれた。
 開戦から二ヶ月余り後の十月三十一日、神尾光臣陸軍中将率いる約三万名の日本軍(久留米第十八師団、第三、第四、第十師団の一部)は、天津から進撃してきたイギリス軍一千名とともに、青島要塞に立て籠もって抵抗する五千名余りのドイツ軍守備隊に攻撃を開始、十一月七日、アルフレッド・フォン・メイヤー・ワルデック総督麾下のドイツ軍守備隊は降伏した。これら一連の戦闘で、陸軍機は延べ八十六回、海軍機は四十九回出動した。
 第一次大戦終了後、陸海軍の飛行隊は解散したが、海軍は大正四年五月、モーリス・ファルマン式大型水上飛行機を使い横須賀追浜から愛知県新舞子間往復飛行(六百十八キロ)を成功させ、海軍に航空隊を設置すべしという気運を盛り上げた。
 翌大正五年、大隈内閣第三十七国会で航空隊設備費六十三万八千円、維持費三十五万千円の予算が認められ、同年四月一日に施行された「海軍航空隊令」にもとづき海軍航空術研究会を発展的に解消、「兵科将校、機関科将校ニ航空術ニ関スル事項ヲ教授シ、カツソノ改良進歩ヲ図ル」ことを目的とし、水上偵察機隊一隊、水上練習機隊三分の一隊をもって横須賀海軍航空隊を開隊、同時に第一期飛行学生(操縦士官を目指す将校学生五名、整備士官を目指す機関科将校学生二名、教育期間一年)の訓練を開始、海軍航空の礎を築いたのであった。
森川が佐世保航空隊から転勤になった昭和五、六年頃の横須賀航空隊は、水上機班と陸上機班とに分かれ、全海軍から選ばれた選りすぐりの飛行機搭乗員が集っていた。また、各機種ごとに最新鋭機が揃えられており、試作機の試験飛行、実用実験、航空戦技の研究、特修科航空練習生の教育が行われていた。
森川は、水上機飛行艇分隊(第五分隊)に配属され、F五号飛行艇や一五式飛行艇の操縦員兼偵察練習生の機上作業訓練の教員を命じられた。
 日本海軍初の制式飛行艇である一五式飛行艇は、大正十五年に広海軍工廠において橋口義男造兵大尉を設計主務者として設計、試作に着手したもので、基本設計はF五号飛行艇の踏襲であった。昭和二年十月、試作一号機が完成、速度の向上を図るために主翼幅を二十二・九七三メートル(F五号飛行艇は三十一・五九メートル)と約七十三パーセントにまで切りつめていたが、F五号飛行艇に比べて最高速度は二十五キロほどしか改善されなかった反面、航続時間は二倍近い十四時間と飛躍的に延びたばかりでなく、離水能力、操縦性とも大幅に向上していた。四年二月、F五号飛行艇の製作打切りにともない、「一五式一号飛行艇(H1H1)」の名称で海軍に制式採用された。複葉木骨羽布張り、乗員六名、全幅二十二・九七三メートル、全長十五・一一メートル、全高五・一九二メートル、主翼面積百二十五㎡、自重四・〇二トン、搭載量二・〇八トン、全備重量六・一トン、翼面荷重五十二㎏/㎡、馬力荷重六・七八㎏/hp、中島製ロレーン二型液冷式W型十二気筒四百五十馬力発動機二基搭載、プロペラ型式木製固定ピッチ二翅、最高速度百七十キロ、上昇力三千メートルまで三十三分五十秒、航続時間約十四時間五十分、武装七・七ミリ旋回機銃×二という諸元、性能で、一号(H1H1)、改一号(H1H2)、二号(H1H3)合わせて六十五機(広廠二十機・愛知時計電気四十五機)が生産され、昭和九年に生産中止の後も飛行艇部隊の主力として昭和十三年頃まで使用された。
 一五式飛行艇は、いったん飛び上がれば鳳が蒼空を飛ぶが如く、最低気速四十五ノットで水平飛行出来る安定性のよい飛行艇であった。制式採用されてわずか三ヶ月後の昭和四年五月、横須賀航空隊の進信蔵大尉指揮下の一五式飛行艇二機は、海軍航空長年の夢であった横須賀からサイパンまで往復二千五百四十四浬(モウグ島経由)を翔破するという快挙を成し遂げた。
 森川が横須賀航空隊へ転勤して驚いたのは、佐世保航空隊と比べて、訓練の度合いがいささか荒っぽいということであった。
 佐世保航空隊では、木製である艇底を傷めないように、着水速度は遅いほどよしとされていたが、横須賀航空隊では「横空式」といって、的確な操作とすばやい判断力を養うために、横須賀沖から館山沖までF五号飛行艇や一五式飛行艇を離水させて高度二十メートルほど上昇させると、すぐさま着水させ、再び離水運動を開始させる。陸上機でいうところの「タッチ・アンド・ゴー(着陸復航)」を繰り返しやらせていた。
 佐世保など外の航空隊から転勤してきた飛行艇パイロットは、この横空式離着水訓練で東京湾を東に向かって横切らされると、離着水の極度の緊張と人力操作の重い三舵で身も心もくたくたになり、訓練終了後も、しばらくは操縦席から立ち上がることが出来ないという経験を味あわされるのである。