森川は戦艦陸奥での二年間にわたる艦隊勤務を終え、飛行艇パイロットに

 昭和三年十二月一日、森川は戦艦陸奥での二年間にわたる艦隊勤務を終え、再び佐世保航空隊に帰ってきた。配属された分隊は、水上飛行機乗りあこがれの飛行艇分隊であった。
飛行艇分隊は、パイロットはもとより、偵察、電信、機関兵に至るまで皆ベテランばかりで、一番年若い森川だったが、「あれが陸奥に乗った森川か」と隊内で一目置かれ、陸奥での艦隊勤務の模様を根ほり葉ほり聞きに来る先輩パイロットもいたほどである。
森川は、面はゆい思いをしながら、F五号飛行艇やその後継機である一五式飛行艇パイロットとして飛行訓練に励んだ。
イギリスのショートF5哨戒飛行艇国産化したF五号飛行艇は、造作がすべてにおいてゆったりとしており、五体の小さいパイロットでは、フットバーに足がとどかないほどであった。また、方向舵、昇降舵、補助翼など三舵は、現在のように油圧操作ではなく、すべてパイロットの人力であった。その中でも、巨大な補助翼と昇降舵の操作には強靱な膂力を必要とした。飛行艇パイロットが、「身体が大きくなくてはならない。腕力、体力で操縦する」といわれた由縁である。
この飛行艇の操縦方法は、外の水上飛行機とひと味違っていた。
 風上に正向して発動機を全開にすると機首を上げる。パイロットは操縦輪を前に押して機首を下げ離水速度をつけようとする。ここまでの操作は外の水上飛行機と何ら変わらないが、F五号飛行艇は操縦輪を押したぐらいでは機首を下げようとしない。そこで、わざとポーポイズ(イルカの泳ぐ姿から来た言葉。離着水時における機首の上げ下げ運動。イルカのように跳躍運動を起こし、速度が上がるにつれて振幅が大きくなる)にもっていき、だんだんと速度をつけていく。時には、操縦輪にロープを付けて前方のバーメン席に乗り込んでいる偵察員にその一端を持たせ、パイロットと呼吸を合わせて引っぱる、前に押すという操作をしながら速度を上げて行く。あるいは、水上滑走中に補助翼を使って艇体を左右に傾け、泥田から片足ずつ引っこ抜くようにしながら離水するという、陸上機のパイロットには真似の出来ない、汗だくの操縦方法を要求された。そのためF五号飛行艇は、追浜から本牧沖まで一時間以上も発動機全開で水上滑走しても離水しなかったという、あまりありがたくない記録を持っていた。
 しかし、F五号飛行艇が鈍重なるが故に、森川は九死に一生を得ることになる。
 昭和四年十月、横須賀航空隊において佐空横空合同演習が行われ、佐世保航空隊飛行艇分隊はF一号飛行艇を参加させた。
 このF一号飛行艇というのは、F五号飛行艇に搭載されているロールスロイス社製「イーグル」液冷式V型十二気筒三百五十馬力発動機を、大正十四年に広海軍工廠においてフランスのロレーン社製液冷式W型十二気筒四百馬力発動機を国産化したものに換装した飛行艇であり、佐世保航空隊に配置されていた。
 横須賀南方海上御蔵島方面への索敵演習に出ての帰り、主操縦席は森川が、副操縦席には同郷の先輩パイロット空林永治航空兵曹長という小豆島コンビが操縦輪を握っていた。
 大海原のまっただ中で、突然艇体に不快な振動が走り、左発動機の回転が上がらなくなった。そればかりか、森川がスロットルを開くと、かえってブルン、ブルンと不機嫌にしゃくり上げ、艇体に走る振動をますます大きくした。
機上整備を担当する山下一等機関兵曹(当時はまだ整備科はなく、機上整備の搭乗員は機関科に属していた)は、血眼になって燃料の残量、タンク切り替えコックや混合気調整レバーを調べたが、異常は見つからなかった。
F一号飛行艇は、ゆっくりと降下を始めた。
飛行機を上昇させる操作として、機体の運動量を利用する操作と発動機の推力を使う二つの方法がある。
 一つは、操縦桿を手前に引くと飛行機のピッチ姿勢を制御する昇降舵の働きにより機首が上がり、飛行機は速度を落としながら上昇しようとする、速度と引き替えに高度を得る方法。もう一つは、スロットルを開き、発動機の出力を上げて上昇させる、速度を低下させずに高度を上げる方法である。
 森川と空林は、左発動機の不調という推力の減少を、昇降舵の微妙な操作で補おうとしたが、機首を上げて高度を維持しようとすれば、速度が落ち機首を下げて降下する。降下すると速度がつき水平飛行に入る。しばらくすると、また速度が落ちて降下する。F一号飛行艇は、目には見えない大空の階段をゆっくりと下るように高度を下げて行った。
何はともあれ艇体を軽くしなければならない。
「工具や手荷物など捨てろ」
空林が怒鳴った。
偵察員や機上整備の機関兵は、飛行艇に積み込んでいる手荷物を初めとして、工具類、航法目標用発煙筒まで投げ捨てたが、F一号飛行艇は緩降下を続けた。
 海軍きっての名飛行艇乗りと謳われる空林空曹長といえども、飛行中の発動機の故障は手の打ちようがなかった。
 眼下の大海原は西風二十メートル余り、黒ずんだうねりを覆い隠すかのように、海軍ナイフの刃を並べ立てたような嶮しい波が白々と立ち騒ぎ、海面を波飛沫が横に飛んでいた。
 このまま降下を続けて荒れた海原に不時着水しても、波浪にあおられて大破、沈没はまぬがれない。森川は、目を凝らして房総半島を探したが、見えるのは水平線と荒れた大海原ばかりであった。
 高度が千メートルまでに落ちたところで、山下一機曹が左発動機の気化器(キャブレター)から白い霧のようなものが噴出しているのを見つけると、躊躇することなく下翼に這い上がった。
(ガソリンだ)
森川の顔から血の気が引いた。
燃料が霧状になって漏れていた。排気管のアフターファイアーで引火しなかったのがせめてもの救いであった。
飛行艇に搭乗しているすべての者が固唾を呑んで見守る中、山下一機曹が風圧で頬を異様に膨らませながら張線と翼柱をつたわって左発動機に取り付き、気化器のドレンボルトを締め、ガソリンの噴出をくい止めると、不調だった発動機が勢いよく回り始めた。
 この時の高度はわずかに百メートル、気速は最低飛行速度を下回る四十ノットであった。いつ、ぐらりと傾いて海面に突っ込んでもおかしくはなかった。山下一機曹の処置が後一、二分遅れていれば、間違いなく太平洋の水底へと消えていたに違いなかった。
 横須賀に帰投後、山下一機曹の生死を省みない勇敢な機上作業は、これこそ飛行艇搭乗員気質の神髄を発揮したものと、横須賀鎮守府司令長官から表彰された。
 飛行中に翼をつたわり不調の発動機を修理するなどということは、低速、複葉のF一号飛行艇だから出来た芸当であった。
これと同じような事故は、半年前にも起きていた。
 昭和四年五月、F五号飛行艇の後継機として、その年の二月に制式採用されたばかりの一五式飛行艇二機が、横須賀・サイパン間往復飛行を敢行した時のこと。復航の途中、モウグ島に立ち寄り父島に向かっていた一番機の左発動機油圧計の給油管が損傷し潤滑油が漏れているのを、機上整備員の桜井一等機関兵曹が発見した。このままでは発動機は焼損してしまう。桜井一機曹は身の危険を顧みず下翼の上に這い上がって応急修理を行い、飛行艇を父島に安着させたのであった。
発動機の故障により、洋上に不時着水し、水上滑走して帰投した例もあった。
 昭和七年八月八日、久邇宮朝融王が伊東祐満大尉の操縦する一五式飛行艇に乗り、廃艦「阿蘇」の撃沈演習を見学しての帰りのこと。房総半島野島崎沖で左発動機が故障、伊東大尉の懸命の操縦で洋上に片肺着水を行った。幸い海が荒れていなかったため、残る右発動機を使って約六十キロを水上滑走し、無事館山に帰投したのであった。
二式大艇が四基の発動機の内、片舷二基を減軸しても巡航速度で飛べ、なおかつ回っている発動機の側に旋回出来るように設計されていたのと異なり、昭和初期の飛行機の発動機は非力だった。F一号飛行艇の場合、左発動機がバラつきながらもまだ回っていたため穏やかに降下したが、双発の飛行艇は発動機の数が多いだけ、単発機より墜落の可能性は高いとされていた。