森川、陸奥とともに、青島、芝罘、旅順、大連、基隆、香港、馬公などを巡る

森川は、陸奥での二年間にわたる艦隊勤務において、日本各地の要港を初めとして、青島、芝罘、旅順、大連、基隆、香港、馬公などを巡り、瀬戸内海はもとより太平洋、日本海、東支那海などの外洋を飛び回るという、海軍航空隊のパイロットとして得難い体験を積み重ねた。
そんな森川だったが、着水時に風にあおられ、一四式水上偵察機は機首から海に突っ込み、森川自身も操縦席から海に投げ出されるという事故を起こしている。
陸奥に乗組んで間もない昭和二年四月、場所は荒れた大連沖であった。
離水した時はさほどでもなかったが、天候が急変した。森川は、訓練を中止して陸奥の上空に戻り、まず一回りして、風向きと海面の状況を確かめた。
空から見る海原は、大陸からの東風が吹きつのっていた。軍艦旗が風にはためき、陸奥の艦首錨鎖は、風上に向かって張りつめていた。
海は、無風の時には鏡のように静かで、風速三、四メートルからさざ波が立ち始め、五、六メートルでは波頭が小さく砕けるようになり、十メートルでは波飛沫が飛び、それ以上風が強くなると、青黒い海面が箒で掃いたように白くなる。
 離水した時と海原の様相は一変していた。
(東の風八メートル、波の高さは五十センチ、いや・・・)
 森川は、着水海面の状態をこう判断した。
太平洋戦争末期、予科練や海軍飛行科予備学生の多くが、艦船に乗組み勤務するという経験がなかったのに比べ、森川はパイロットであるとともに、れっきとした水兵であった。
 水兵にとって、煙突から後方に流れ出る排煙や、艦尾から盛り上がるウエーキーでその速力を推定するのは、日常茶飯事のことであった。そればかりか、森川は幼い頃より祖父の楫子として海に出ていたため、空と海の模様を読みとるのに長けていた。
後のことになるが、日本海軍は欧米のどの海軍よりも、水上偵察機の洋上着水とその揚収作業の猛訓練に励んだ。
 昭和三年、圧縮空気で水上偵察機を艦船から直接飛び立たせる呉式一号射出機(カタパルト)が開発され、五年には一号射出機に改良を加え、大幅に性能が向上した呉式二号射出機(火薬式)が水上機母艦巡洋艦、戦艦などに搭載されるようになり、夜間や荒れ模様の天候でも水上偵察機の射出が可能になると、弾着観測や偵察を終えて帰投した水上偵察機を荒れた海原に着水させるために、母艦は風上に艦首を向けて全速力で右または左に三百六十度回頭し、再び艦首を風上に向け、機関を後進一杯にかけて船の行き脚を止める。この全速回頭の航跡により船の内側の海面の波頭は削り取られ、一時的に穏やかになる。そこに水上偵察機を着水させて母艦に揚収するようになった。
 このように水上偵察機の揚収は、時には母艦をわざわざ動かさなければならないという煩雑な作業を伴っていたが、この「制波揚収」は一万トン級の水上機母艦巡洋艦などで行われ、三万トンを超える陸奥のような戦艦では、めったに実施されることはなかった。
 森川は、陸奥の上空を旋回しながら波と風の様子をうかがっていたが、衰える気配はなかった。
 一四式水上偵察機の離着水の場合、波の高さは五十センチが限界であった。それ以上高くなれば、離着水はもとより水上滑走ですら、風にあおられて転覆する怖れがあった。
じりじりと焼けつくような時間が過ぎて行ったが、いつまでも飛び続けることは出来ない。
「着水する」
 森川は、後席の増田偵察員、松崎電信員にこう告げると、機首を風上に向け、スロットルレバーを慎重に絞った。
腹に大きなフロートを二つ抱える水上機の離着水は、陸上機に比べてどうしても機首が上がり気味になる。森川は、機首を押さえながら一四式水上偵察機を風上に正向させ、陸奥の右舷艦尾の海面に着水させようとした。
 波頭が白く泡立ち、長く尾を引いているほうが風上であったが、海原を吹き抜ける風は、着水に都合がいいように、一定には吹いてくれない。また風は、地上では横に吹くものと思われているが、空では下から上、上から下へと縦横無尽に吹き、陸奥の巨大な船体とそびえ立つ前楼檣にぶつかった風は、時にはワエを巻いて逆方向に吹き抜ける。さらに荒天下の離着水では、風向きだけでなく、潮の流れ、波浪の向き、高さを計算に入れておかなければならない。
陸奥に近づくにつれて、一四式水上偵察機は風の影響を受け、右に流されだした。
 森川は、あて舵をあて、機首を着水海面に合わせようとした。目の前に、白波立つ海面が大きくせり上がってきた。
 機首を上げすぎれば、着水海面を大きくそれてしまう。下げすぎれば、フロートの先端を波頭に突っかけ、もんどり打ってしまう。森川は、陸奥の後檣に視線を走らせて高度十五メートルの目安を確認すると、発動機を絞りながら操縦桿をゆっくりと手前に引き、眼高二メートルで一杯に引きつけた。
フロートが波頭に触れるたびに、バン、バン、バンと厚板で叩かれるような重い衝撃がフットバーに置いた両足と尻に走り、操縦席から身体が浮き上がりそうになった。
 一四式水上偵察機は四、五回大きくバウンドしながら着水したが、水上滑走に移ったとたん、小山のようなうねりと風に翻弄され、機体が強くガブリ始めた。
 波頭が機首より高くなり、森川の目から海面が消えるようになった。
 水上飛行機は、その構造上、上下と前からの力には強いが、横と後ろから受ける力には極めて脆い。森川が一四式水上偵察機の機首を陸奥の艦首に向けようと左に振ったところ、突風とうねりに尾翼が持ち上げられ、プロペラが海面を激しく切り裂いた瞬間、一四式水上偵察機は海原に逆立った。
座席バンドをしていなかった森川は、操縦席から海に投げ出され、海面に顔を出した時には、逆立ち状態の一四式水上偵察機から百メートルほど流されていた。
 着水の模様を固唾を呑んで見守っていた陸奥から、間髪を入れず九メートルカッターが下ろされ、一四式水上偵察機に向かって海原を泳ぐ森川、そして一四式水上偵察機に取り残されていた増田偵察員、松崎電信員を助け上げた。
幸いにして、海に投げ出された森川が頭と顔に小さな裂傷を負っただけで、増田、松崎とも怪我はなかった。
カッターに曳航されて陸奥に引き揚げられた一四式水上偵察機は、機首から海面に突っ込んだため、平行に取り付けられている二つのフロートの前部がそれぞれ翼端に向かって開き、後部は接触するという逆ハの字形に、主翼前縁の羽布はボロボロに破れ、木製プロペラの二枚のブレードの内の一枚は根本からへし折れていた。
いったん艦隊訓練が始まれば、航空隊のように日曜日は休み、天候が悪化すれば飛行訓練は中止という悠長なことは許されない。森川は、陸奥に乗組んでみて初めて、飛行機の都合で飛ぶのではなく、陸奥の、艦隊の都合で飛ばなければならないということが、いかに大変なことかを身をもって知らされたのである。
「太平洋や日本海などの外海はうねりのスパンが大きく、瀬戸内海とは比較になりません。うねりはゆったりとしていますが、その力は三万トン以上もある陸奥でさえ簡単に持ち上げます。空からは波の様子はよくわかりますが、うねりというものは、波と違ってゆったりとしているだけにわかりにくいものです。昭和二年四月、私は大連沖でうねりと突風のために着水に失敗して海に投げ出されました。その時の傷がこれです。私は座席バンドをしていませんでしたので、海に投げ出されて助かりました。バンドは身体の自由を奪うような気がして、私は好きではありませんでした。車のシートベルトがやかましく言われていますが、それは善し悪しだと思います。私は事故が起きた時に備えて、その後も座席バンドをしませんでした」
後年、森川が知人の車に乗せてもらっても、どうしてもシートベルトをしようとしなかったのは、このためであった。
 十二月四日、横浜沖において大礼特別観艦式が挙行された。お召艦は戦艦「榛名」、百八十六隻の艦船、百三十二機の飛行機、飛行船二機が参加した。
この中には、昭和二年に竣工したばかりの航空母艦「赤城」が、フラッシュデッキ三段式(艦首のところで飛行甲板が階段状になっており、上段が搭載機の着艦用、中段、下段が発艦用)という、軍艦としては特異な巨体を浮かべていた。また、昭和天皇即位の慶祝の意をあらわしに来航した諸外国の軍艦、イギリス海軍の一万トン級重巡洋艦「ケント」、「サッフォーク」、「バーウィック」、アメリカ海軍の巡洋艦ピッツバーグ」、フランス海軍の巡洋艦「ジュール・ミシューレ」、イタリア海軍の巡洋艦「ジャワ」が一列に並んで錨を下ろしていた。
 その夜、連合艦隊全艦船による電燈艦飾が行われ、イルミネーションがそれぞれの艦影を夜目にも鮮やかに浮かび上がらせた。
森川は、陸奥での艦隊生活の軌跡として、飛行服姿の久邇宮朝融王の写真。宿毛沖での四十センチ主砲弾着の航空写真。戦艦扶桑が弾着観測の気球を曳航索で引っぱりながら航行している航空写真。陣形運動中の陸奥長門。扶桑、日向の主砲発射の瞬間。徳山港に入港の長門。水偵揚収デリックで海原に下ろされようとする森川の愛機一四式水上偵察機。大連沖で着水に失敗し破損した一四式水上偵察機和歌浦湾を抜錨し宿毛に向かう連合艦隊宇和島、函館の航空写真。三田尻沖に集結した連合艦隊と空中分列式。昭和二年三月三十日の青島、四月の旅順入港の連合艦隊。十一月三日の明治節において陸奥後部甲板での演芸会。安芸の宮島に着水した一四式水上偵察機と森川。電燈艦飾の陸奥長門の艦橋探照灯の照射。御大典の菓子と御賜の朱塗りの杯。陸奥の前檣楼と四十センチ主砲、スペリー式五万燭光百十センチ探照灯と八センチ高角砲、艦尾、煙突など。満艦飾の陸奥長門の航空写真。陸奥の後檣から写した後部甲板での総員体操風景、一四式水上偵察機を搭載する陸奥の写真などを、森川は海軍記念写真というアルバムに貼り、平成五年に亡くなるまで大切に保存していた。
「私は大正十三年から昭和十年まで十一年間航空隊のパイロットとして海軍にいましたが、もっとも楽しかったのは、陸奥での艦隊勤務でした」
森川によれば、陸奥での艦隊勤務は初めてのことばかりで、一時も気を抜けなかったが、陸奥航空科分隊では、兵隊の間で日常茶飯事に行われていた凄惨で陰湿な罰直などはなく、本当に楽しかった。ただ、水兵ながら髪は丸刈りではなくオールバックにしていたため、外の分隊から、一等水兵のくせに民間人のように長髪とは生意気な、あいつは何者だということで、多少の嫌がらせはあったとのことである。
「艦隊が演習のために宿毛に向かって和歌浦を出る時、私は一四式水上偵察機で一足先に宿毛に向かって飛びます。連合艦隊の出港は、まず潜水艦が出て行きます。続いて駆逐艦巡洋艦、そして陸奥長門などの戦艦が出て行きます。空から見ていますと、それは壮観なもので、艦隊勤務のパイロットしか味わえないものでした」
和歌山市雑賀崎と下津町のツブネ鼻を湾口とする楔形の和歌浦湾は、関西地方で唯一、第一艦隊、第二艦隊が一緒に碇泊出来る泊地であった。晩年、森川は親しくなった公民館主事の鈴木勝男に、新和歌浦を抜錨し高知県宿毛に向かう連合艦隊の航空写真を見せながら、なつかしそうな顔をして語っている。