「昭和の御代」初めての大観艦式が横浜沖で挙行された。森川、天覧の栄に・・・

 十月二十一日、連合艦隊は大島沖において、加藤寛治大将率いる第一、第二艦隊からなる青軍(防御軍)と、山本英輔中将率いる特設第三艦隊よりなる赤軍(攻撃軍)に分かれ、秋の大演習を行った。
三十日、「昭和の御代」初めての大観艦式が横浜沖で挙行された。
鮮やかな紅の地に金糸で菊の御紋章を縫い取った天皇旗を後檣高く掲げた陸奥から、森川操縦員、増田偵察員、松崎電信員の乗る一四式水上偵察機「ムツ一号機」が横浜沖の荒れた海原に降ろされた。
観艦式で失敗は、絶対に許されない。一四式水上偵察機は、機体に対して発動機の馬力が不足していた。森川は万が一を考え、整備を担当する機関兵と相談して、燃料、冷却水の量を最小限度に、無線機を取り外して極力機体を軽くした。
陸奥に座乗する天皇や皇族、連合艦隊司令長官加藤寛治大将、海軍大臣岡田啓介大将、軍令部長鈴木貫太郎大将など居並ぶ将官の見守る中、森川は吹きすさぶ北西の風をものともせずに一四式水上偵察機を鮮やかに離水させ、大空に舞い上がらせた。
森川、一代の晴れ舞台であった。
この大観艦式には、陸奥長門以下百八十六隻の艨艟と百三十二機の海鷲が参加、延べ百万人にも上る国民が見守った。
お召艦の大役を無事務めた陸奥は、十一月三日の明治節を横須賀で迎えると、母港佐世保に向かった。
十二日、神戸港に入港した陸奥に、今度は小豆島の両親が京阪神にいる親戚を連れてたずねてきた。
海軍は、日曜日や祭日には乗組員の家族や友人などが軍艦の見学を兼ねて艦内まで面会に行くことを許可していた。軍艦開放の目的の一つには、船に乗っているためなかなか会うことの出来ない肉親との面会、それと国民の血税を使って建造した軍艦の偉容を披露するためであった。
 陸奥の母港九州佐世保は小豆島から遠く、おいそれと面会に行くことは出来なかったが、神戸なら目と鼻の先、小豆島と阪神間を結ぶ大阪航路の寄港地であった。
出迎えた森川が、
陸奥は三万二千七百二十トン、全長は二百十五メートルもあります」
「舳先の菊の御紋章は、小学生の背丈と同じ四尺あります」
「舳先の錨は二千二百貫です」
「乗組員は千三百人です」
「これが陸奥の四十センチ主砲です。弾は二百七十貫もありますが、富士山よりも高く飛んで七里半の向こうまで飛んで行きます。世界一の大砲です」
と説明するたびに、
「勲、陸奥いうたらごっつい(すごい)軍艦やのうーー」
両親は、目を丸くしながら、この言葉ばかりを繰り返した。
森川は、両親を後檣と第三砲塔との間に鎮座する一四式水上偵察機へと誘い、
「この飛行機は一四式水上偵察機といい、この前小豆島に乗って帰ったやつです」
自分の愛機を紹介した。
森川の両親は飛行機に乗っている息子が、なぜ陸奥という戦艦に乗っているのか、長い間わからなかったらしく、
「勲はそれで陸奥に乗っているのか、軍艦に飛行機をのう・・・」
 森川の説明を聞いて初めて納得したという顔をして、一四式水上偵察機をしげしげと眺めた。
国内においては、わずか二ヶ月で三十二もの銀行が休業や倒産に追い込まれるという未曾有の金融恐慌が吹き荒れ、「大学は出たけれど」という言葉が人口に膾炙されるほど不況のどん底におちいっていた。国外に目を転じると、南京の日本領事館が中国国民革命軍に襲撃された南京事件。続いて、漢口の日本人租界で海軍陸戦隊と中国人が衝突した漢口事件の勃発。蒋介石が国民政府を樹立したのにともない、中国の居留民保護を目的とした第一次山東出兵。それを解決しようとした幣原喜重郎外相の「軟弱外交」など、内憂外患の昭和二年という年があわただしく暮れた。
昭和三年三月二十九日、有明湾を抜錨した長門陸奥、扶桑の三戦艦は、第一水雷戦隊旗艦軽巡洋艦天竜」麾下の第十三、十五、十六、二十六の四個駆逐隊合わせて十六隻を率い、親善のためにイギリス東洋艦隊の根拠地である香港に向かった。
 日本海軍の主力艦が外国を親善目的で訪れるのは極めて異例であり、中国を除けば、陸奥、そして森川にとって初めての外国であった。
四月九日、まず軽巡天竜に率いられた駆逐隊が香港港外の狭水道を通り、その後を長門陸奥、扶桑の順で通過、九龍半島香港島の間に、連合艦隊司令長官の将旗を後檣にはためかせた長門、続いて陸奥、扶桑の三戦艦が姿をあらわすと、香港島海軍工廠に接岸していたイギリス東洋艦隊旗艦「ホーキンズ」と空母「ハーミーズ」から十七発の礼砲が殷々と撃ち鳴らされた。
 三戦艦は答礼を行いながら、旗艦長門香港島ヴィクトリア地区の沖合五百メートルのブイに繋留した。続いて陸奥長門の右舷斜め後方のブイに、扶桑と天竜に率いられた駆逐隊は、海軍工廠沖に碇泊する空母ハーミーズ近くのブイに繋留した。
クレメンテ香港総督及びイギリス東洋艦隊は、歓迎レセプションやハッピーバレーの競馬場で日英対抗の運動会を盛大に催した。また、日本艦隊の乗組員のために、ヴィクトリア・ピーク、アバディーン、レパルス・ベイなどが開放され、市内電車や香港名物のケーブルカーは無料となった。
森川は、香港滞在中に標高五百五十一メートルのヴィクトリア・ピークに登り、展望台から壮麗な建物の建ち並ぶヴィクトリア地区、その沖合に天幕を張って碇泊する陸奥長門の雄姿、対岸の九龍半島を心ゆくまで眺めた。
 四月十三日、五日間の親善行事を無事にすませた日本艦隊は香港を出港、途中馬公に寄港、四月下旬横須賀に帰投した。