森川、テストパイロットとして歩み出す。

 この七部門の中の一つである飛行実験部には、陸上機班、水上機班を問わず、全海軍航空隊から選び抜かれた名パイロットが一堂に会していた。
 森川が誘われた水上機班には、日本最大の四発大型飛行艇である川西九七式大艇の初飛行をした近藤勝治中佐(後に少将)を筆頭に、中島悌三、峯松厳、寺井邦三、伊東祐満(四人とも後に大佐)、勝田三郎(横浜航空隊の飛行長として九七式大艇隊を率いてソロモン諸島タナンボコ島に進出、戦死)と、いずれ劣らぬ名パイロットが集っていた。
 航空廠飛行実験部から誘われたということは、海軍航空隊のパイロットであった森川にとって、これに過ぎる名誉はなかった。まして森川は、羽田の海洋飛行団の、それも水上機ではなく、海軍から払い下げられた時代遅れのアブロ504K型陸上練習機や三式陸上初歩練習機を使って大学生や専門学生に飛行機の操縦を教えている一教官であった。
これは、かつて飛行練習生を卒業したての森川が、佐世保航空隊の幾多の先輩パイロットをさしおいて、戦艦陸奥の水上偵察機パイロットとして乗組みを命じられたのと同じく、異例の大抜擢であったが、飛行実験部では、経験豊富な水上機パイロットである森川を、ぜひとも必要とする事情があったのである。
昭和九年、海軍は仮想敵国アメリカとの艦隊決戦に備え、四十六センチ主砲八門以上、十五・五センチ副砲三連装四基又は二十センチ連装砲四基、速力三十ノット以上、防御力は自艦の主砲弾に対して二万から三万五千メートルの戦闘距離に耐え、十八ノットにて八千浬の航続能力を有する新戦艦の建造基本計画を策定した。翌十年三月十日、この「Aー一四〇計画」ーー日本海軍が計画した百四十番目の戦艦としての原案をもとに建造が開始されたのが、世界最大の超弩級戦艦「大和」、「武蔵」である。
 そして、海軍が「Aー一四〇計画」にきびすを合わせて着手したのが、弾着観測も出来、敵水上偵察機との空中戦も可能な優れた運動性能を有する新機種ーー「水上観測機(十試観測機)」の開発であった。
 日本海軍の戦略、戦術思想の主流は、日露戦争このかた、「戦艦ノ主砲ニヨリ海戦ノ帰趨ヲ決シ、モッテ制海権ヲ獲得セントス」という、大艦巨砲、艦隊決戦主義であり、日本本土めがけて攻め寄せてくるであろうアメリカ太平洋艦隊を撃滅する作戦として、漸減邀撃で迎え撃とうというものであった。
 この作戦の基本構想は、「水雷戦隊、潜水戦隊、航空戦隊ヲ駆使シタ漸減作戦デ敵艦隊ニ打撃ヲ与エタウエデ主力艦同士ノ艦隊決戦ニ臨ミ、巨砲ヲ駆使シタ砲戦デ雌雄ヲ決スル」ーー艦隊決戦に先駆けて駆逐艦や潜水艦、航空機などの補助戦力が奇襲攻撃をかけて優勢なアメリカ太平洋艦隊の戦力を七割まで減ら(漸減)した後、戦艦を主力とした第一艦隊と大型巡洋艦水雷戦隊からなる第二艦隊の連繋作戦で艦隊決戦に持ち込み(邀撃)、一挙に撃滅するというものである。
その当時、日本海軍は陸奥長門以下十隻の戦艦を保有していた。建造予定の「大和」、「武蔵」の超弩級戦艦二艦を加えた戦艦十二隻と一万トン級重巡洋艦十八隻を主力とした艦隊で、明治三十八年五月二十七日の日本海海戦においてロシア・バルチック艦隊を完膚無きまで撃滅したように、日本本土に押し寄せてくるであろうアメリカ艦隊を迎え撃ち、一気に覆滅しようというものであった。
 艦隊決戦に持ち込めれば、数こそ少ないものの、日本の戦艦は主砲の射程距離が長い。アメリカの戦艦の射程外(アウトレンジ)から砲撃して海戦を有利に展開することが出来る。各国海軍の戦艦に先駆けて三十六センチ主砲を搭載したのは「金剛」であり、四十センチ主砲は「長門」、「陸奥」であったように、「大和」、「武蔵」の二戦艦に世界最大の破壊力と射程距離を有する四十六センチ主砲を装備しようとしたのである。
 しかし、いくら主砲の威力が大きく、射程が長大でも、命中しなければ意味がない。遠距離砲撃の命中率を上げるのには、自艦に搭載している水上偵察機による索敵、弾着観測は欠かせない手法であったが、同時に敵艦隊も水上偵察機を飛ばしてくる。この敵水上偵察機を撃墜(敵機撃攘)するために、これまで弾着観測に使用されていた水上偵察機よりも、速度、上昇力、格闘性能、着水時における耐波性に優れた弾着観測用の専用機の開発が急がれていたのである。
 日本海軍において、戦艦の主砲の弾着観測に自艦搭載の水上偵察機を使用したのは、大正十五年六月、それまで陸奥長門などに装備していた弾着観測用繋留気球を撤去し、その代わりに一四式水上偵察機を搭載して弾着観測を行ったことに始まる。
 その陸奥に、水上偵察機パイロットとして初めて乗組んだのは、外ならぬ森川であった。いわば森川は、弾着観測のパイロットとして草分け的な存在であった。
その頃、テストパイロットとしての専門的な教育や体系的な訓練など行われてはいなかった。試作機を試験飛行するテストパイロットは、豊かな飛行経験に裏打ちされた知識や理論を有する老練なパイロットが務めていた。それ故、森川ならばということで白羽の矢が立ったのであった。
航空廠飛行実験部では、欧米より研究のために購入された最新鋭機や、三菱、中島、川西など国内航空機製作会社の試作機に乗ることが出来る。これら欧米の最新鋭機や試作機は、一機何百万円(その頃、海兵団の四等水兵の棒給が五円六十銭、帝大出の三十五歳のエリートサラリーマンの月給が百五十円といわれていた)ーー現在の値段で何百億円か(自衛隊の主力戦闘機F15ファントムは一機百三十億)、日本国内において、これ以上高価で高性能な乗り物は外にはなく、選ばれし数人の者だけが、乗ることを許されるものであった。森川の胸中に、テストパイロットとして飛行実験部で思う存分腕を磨いてみたいという気持ちが、日を追うごとに頭をもたげてきた。
その反面、飛行実験部はパイロットにとって、もっとも危険な職場である。試作機の試験飛行に、不測の事故はつきものである。テストパイロットは、それら突発的なインシデントやアクシデントに遭遇した場合、墜落のその瞬間まで、飛行機を何とか立て直そうと努力する。眼下に町や村があれば、なおさらであった。自由の利かなくなった操縦桿を握りしめ、スロットルを開き、懸命の操作を続けながら、試作機を捨てて落下傘降下という自分が助かる道を選ぶか、地上の犠牲をいかにくい止めるか、高度計の針がどんどん下がって行く操縦席で生と死の選択を迫られる。その結果、試作機を捨てて落下傘で降下すれば助かったはずのテストパイロットの多くが、山や海に突っ込んで殉職していた。朝に笑顔で家を出たが、夕べには見るも無惨な姿で帰ってくる。死と背中合わせの毎日、それがテストパイロットという仕事の宿命であるということを、大正十四年八月から飛行機に乗り、何度ももう駄目かという窮地におちいり、墜落も経験した。先輩、同僚、後輩パイロットの離着水失敗、墜落の惨劇を数限りなく見てきた森川は、誰よりもよく知っていた。
パイロットとして、飛行機事故で死ぬのはしかたがないが・・・) 
森川は、ツネに、 
「誘ってくれる人がおり、海洋飛行団を辞めて横須賀の航空廠飛行実験部に勤めようと思っている。そこでの仕事は試作機や研究のために外国から購入した飛行機を試験飛行することだ」
と告げた。
突然、航空廠飛行実験部という聞いたこともない職場への転職を告げられたツネは、
「あなたの思うようにしたら・・・」
こう答えるしかなかった。
 結婚して二ヶ月もたたないうちに、夫からの転職の話であった。小豆島という田舎育ち、東海道線の汽車の窓から富士山を見たのも、東京に来たのも初めてであったツネは、テストパイロットという仕事が、いかに危険な仕事であるか、知らなかった。
 病死した妻ならば、殉職した飛行機搭乗員の葬儀に何度となく参列して、飛行機事故の悲惨さを身にしみて知っていた。二人の子どものために、飛行実験部のテストパイロットに転職することを反対したかもしれなかったが、ツネはまだ飛行機事故というものに出くわしてはいなかった。
その頃、「昨日は佐世保で、今日は横須賀、明日は霞ヶ浦で墜ちるのか」と巷で流布されるほど飛行機事故は頻発し、海軍だけでも、昭和十年の飛行機搭乗員の死亡者四十二名、負傷者四十三名、翌十一年の死亡者は前年の倍以上の九十八名、負傷者五十五名と、年を追うごとに増え続けていた。
 その尊い犠牲のもと、日本の飛行機は日進月歩の勢いで進化していた。
 昭和十二年四月六日午前二時十二分過ぎ、イギリスのジョージ六世の戴冠式を慶賀しようと立川飛行場を飛び立った朝日新聞の「神風号(三菱キ一五司令部偵察機試作二号機、後の三菱九七式司令部偵察機・搭乗員は飯沼正明操縦士、塚越賢機関士)」は、台北ハノイビエンチャンカルカッタ、ジョドプル、カラチ、バスラ、バグダッドアテネ、ローマ、パリを経てロンドンのクロイドン飛行場に安着、訪英親善飛行に成功するとともに立川・ロンドン間を、飛行距離一万五千三百五十七キロ、所要時間九十四時間十七分五十八秒(滞空時間五十一時間十九分二十三秒)という驚異的な短時間で翔破、亜欧連絡飛行の国際記録を樹立し、飛行機愛好家のみならず、国民を熱狂の渦に巻き込んだ。
この朝日新聞の「神風号」に負けじとばかりに、東京日日、大阪毎日の両新聞社による世界一周飛行が挙行された。昭和十四年八月二十六日、海軍の新鋭双発爆撃機九六式陸上攻撃機」を長距離飛行用に改造した「日本号(中尾純利機長、吉田重雄操縦士ら七人の搭乗員)」は羽田飛行場を飛び立ち、アラスカ、北アメリカ、南アメリカ、アフリカ、ヨーロッパ、中近東、アジアなど三十二ヶ所を経由、距離にして五万二千八百六十キロ、百九十四時間の飛行を終え、無事羽田飛行場に着陸したのである。
 また、「神風号」の亜欧連絡飛行、「日本号」の世界一周飛行という壮挙とは別に、東京帝国大学附属航空研究所は、純然たる飛行記録に挑戦することを目的とした長距離機(通称・航研機)を設計した。東京瓦斯電気工業が製作した航研機(陸軍の藤田雄蔵大尉、高橋福次郎准尉両操縦士、関根近吉機関士)は、昭和十三年五月十三日から十五日にかけて、千葉県木更津、群馬県太田、神奈川県平塚を結ぶ四百一・七五九キロの三角周回コースを二十九周し、周回飛行速度記録一万メートル当たり平均速度百八十六・七七五キロ、滞空時間六十二時間二十二分四十九秒、距離一万千六百五十一・〇一一キロの周回距離世界新記録を樹立した。
 この記録はFAI(国際航空連盟)の公認記録となり、日本の飛行機の性能水準の高さ、特に卓越した長距離飛行性能を遺憾なく顕示し、「日本の飛行機は欧米の模倣の域を脱してはいない」とも、「日本は航空機の後発国である。そんなすごい飛行機が日本人に造れるはずがない」と考えていた諸外国の航空関係者に衝撃を与えたのであった。
 国産飛行機の高性能化は、科学技術の高度化、細分化によるものであるが、その陰には明治四十四年一月、派遣先のドイツで飛行訓練中に墜落して殉職した相原四郎大尉を初めとして、大正二年三月二十八日、所沢飛行場において陸軍の第一期飛行術練習生出身の木村鈴四郎、徳田金一両中尉がブレリオ機で操縦訓練中に墜落、木村中尉は操縦輪に額を打ちつけ、徳田中尉は全身打撲で国内初の犠牲者となって以来、また民間人では明治四十五年十月、アメリカで墜落し死亡した近藤元久飛行士など、幾多の飛行機搭乗員の累々とした屍によって贖われたものであった。