森川、「美保ケ関事件」に直面する。初めての郷土訪問飛行。

艦隊勤務は、前期と後期の年二期に分かれていた。一月中旬から五月中旬までの前期四ヶ月の訓練が終わると、各艦船は整備や修理、乗組員の休養、補充交代のためにいったん母港に帰り、一ヶ月余りの休養の後、七月初旬から十一月末までの後期四ヶ月が始まるのである。
 昭和二年六月七日、連合艦隊司令長官加藤寛治大将は、訓練を終えた直率の第一艦隊を横浜港に入港させ、十日まで艦隊の一般見学を許可した。
 三月十四日、若槻内閣の片岡直温蔵相が衆議院予算委員会において、「東京渡辺銀行破綻」と失言したため、取り付け騒ぎが起き、金融恐慌が始まり、四月十七日、枢密院が台湾銀行救済緊急勅令案を否決、若槻内閣は総辞職、台湾銀行は翌日から休業。二十二日、モラトリアム緊急勅令を公布(三週間の支払い延期)という具合に、巷では不景気風が吹き荒れていた。旗艦長門はもとより、陸奥、扶桑、日向のデッキには、暗い世情から逃れるように、連日見学者でごった返した。
七月十七日、艦隊錨地である佐伯湾を抜錨して奄美大島に向かった連合艦隊は、ここを根拠地として約一ヶ月間にわたり猛烈な戦技演習を連日行ったが、加藤司令長官は、碇泊中も敵艦隊と潜水艦の夜間攻撃に備える警戒訓練として、舷窓の鉄蓋を閉めきるという厳重な灯火管制を命じた。
 真夏、それも奄美大島沖の海域である。酷暑のため艦内は蒸し風呂のようになり、強健を誇る艦隊将兵も倒れる者が続出した。
これに対して加藤司令長官は、「帝國海軍ノ作戦ハ、敵艦隊ノ掃討ニ先ダッテ暑熱ヲ征服スルニアリ」という訓示を出して、この戦技演習を強行した。
 八月一日、危惧されていた事故が起こった。
 敷設艦常磐」が、搭載していた機雷の突然の爆発により大火災を起こしたのである。直ちに陸奥長門を初めとして各艦から消火隊が向かい鎮火させたが、常磐の上甲板は機雷の爆発によりスクラップ状態となり、峰木茂中佐、中庭祐締中佐、帖佐久少佐以下三十八名が殉職、四十七名が重軽傷を負った。
 森川が一年半前に乗組んでいた常磐には、かつての上官や、森川が飛行練習生に合格すると、「飛行機乗りはいつ死ぬかわからん。餞別と香典を一緒にやる」と憎まれ口を利きながら、自分のことのように喜んで送別会を開いてくれた香川県人の同年兵も殉職者の一人であった。
 しかし、常磐の爆発事故は、まだまだ序の口であった。
 森川は「美保ケ関事件」の惨劇を目の当たりにすることになる。
加藤司令長官率いる連合艦隊は、奄美大島方面海域での苛烈な戦技演習を終えると佐世保軍港に集結、日本海へと向かい、五島列島近海で魚雷発射訓練を行った後、水雷戦隊の夜間戦闘演習のために、鳥取と島根の両県にまたがる美保湾に錨を下ろした。
八月二十四日夕方、美保湾を抜錨した連合艦隊五十余隻は、甲軍(長門陸奥以下主力艦部隊)と乙軍(第二十七駆逐隊をその指揮下におく第二水雷戦隊と第五戦隊の「神通」、「那珂」などの軽巡洋艦戦隊)の二手に分かれて演習発動地点に向かった。
 第二十七駆逐隊の「蕨」、「葦」など四隻と第二水雷戦隊が神通、那珂の援護を受けて陸奥長門以下主力艦部隊に夜襲を敢行、魚雷攻撃を仕掛けるという夜間水雷戦闘演習であった。
演習が開始されると、厳重な灯火管制の長門陸奥以下の主力艦部隊は水雷戦隊の追撃を振り切り、晩夏のねっとりとした夜気が漂う漆黒の日本海に、その行方をくらまそうとした。そうはさせまいと、水雷戦隊が二十八ノットの高速で追いすがった。暗闇の海上を無灯火で突っ走り、主力艦部隊に肉薄し、九十度に一斉回頭して魚雷を発射するというものであったが、神通と那珂は、雷撃する前に主力艦部隊に発見されて探照灯の一斉照射を受け、その姿をさらけ出してしまった。神通が照射を避けようと急転舵したところ、後に続いていた第二十七駆逐隊の蕨の船腹に激突した。神通に船体を真っ二つにされた蕨はボイラーが爆発、火柱を立ち上らせながら海に没した。その火柱を見て異変を感じた那珂が急転舵したところ、今度は葦と衝突、那珂の舳先は葦の船体後部をもぎ取った。この二重の衝突事故は、死者行方不明者合わせて百十九名にも上る大惨事となった。
 世にいう「美保ケ関事件」である。
 衝突事故により演習は中止となり、事故現場付近の艦艇は救難作業を開始した。
森川は、夜明けとともに空からの探索を命じられ、事故の一報を受けて舞鶴から飛来した八機の海軍機とともに行方不明者の探索に当たった。
 この事件後、加藤司令長官は舞鶴において、「此ノ度ノ為ニ意気ヲ阻喪スルコトナク、我ガ海軍ノ為、絶対必要ナル此ノ戦闘訓練ニ尽クサルル様、切望シテヤミマセヌ」と艦隊将兵に訓示し、敦賀、函館、横須賀などに寄港しながら移動戦技訓練を続けた。
 この美保ケ関事件は、ワシントン軍縮会議において主力艦の保有比率をアメリカ・イギリスの五に対して日本が三に制限されたことに憤懣を抱く連合艦隊司令長官加藤寛治大将、先任参謀近藤信竹中佐の立案した度の過ぎた演習計画によって引き起こされたものと海軍部内では噂されたが、加藤大将の猛訓練はその後も続き、「月月火水木金金」という、後に国民の間に広く流布する言葉を生み出したほどである。
 森川が海兵団に入団した時は、ワシントン軍縮会議の影響を受けて、「量」から「質」への転換のまっただ中の猛訓練、飛行練習生として霞ヶ浦航空隊に入隊すれば、条約派山本五十六副長による霞ヶ浦航空隊始まって以来の猛烈な飛行訓練、陸奥に乗組めば、大艦巨砲主義軍縮反対を唱える艦隊派加藤寛治大将による、「訓練に制限無し」とばかりに、森川には猛訓練がついて回った。
もっとも、陸奥での艦隊勤務は、つらく、危険なことばかりではなかった。
連合艦隊が入港すると、近隣の市町村は町ぐるみで大歓迎をしてくれた。まして、入港した軍艦が陸奥長門であれば、帝國海軍の誇る世界最強の戦艦を一目見て話の種にしようという見学者が先を争って押し寄せた。
 特に、ふだんは入港する予定のない地方の港町ではそれがいちじるしく、港の港務所には歓迎の横断幕や垂れ幕、アーチなどが作られ、艦隊乗組員待望の風呂屋の無料開放はもとより、夏場なら冷やした西瓜や氷水の接待を初めとして、あらゆる面で優遇してくれた。
 これは、一つには連合艦隊がおらが港に錨を下ろすという名誉であり、さらには、米麦、肉、魚、野菜、飲料水などの補充や、上陸した何千人もの乗組員による飲食や慰安などで、莫大な金が地元に落ちるという経済効果があったためである。
上陸を許された森川が、ランチを降りるやいなや、いの一番に駆けつけたのが、銭湯であった。
艦隊勤務が始まると、入港するまで軍艦への水の補給は出来ない。自ずと節水しなければならず、冬場はまだしも、汗をかく夏場に風呂へ入れないということは、狭い艦内での共同生活ということもあり、どうしても衛生面が低下し、皮膚病などに感染しやすくなる。艦隊勤務におけるつらい事の一つであった。
「艦隊勤務ではまともに風呂に入れませんから、上陸してまず行くところは風呂屋でした。石鹸で身体を洗って湯舟に入り、手足を伸ばす気持ちのよさは、それは何とも言えないものでした」
 森川は、陸奥の、それも水上偵察機パイロットだということで、三田尻では高村という素封家の家にしばしば招かれ、手厚いもてなしを受けている。
森川は、静かに笑うだけで詳しくは語ろうとしなかったが、長身で端正な顔立ちの森川は、数少ないパイロットだということもあり、その筋の玄人ばかりでなく、年頃の娘に大いにもて、三田尻のお嬢という、今でいう「追っかけ」につきまとわれて困ったらしい。
 小豆島の小学校の准訓導、十八歳で海軍を志願、佐世保海兵団での四等水兵から出発して敷設艦常磐乗組み、霞ヶ浦航空隊での飛行練習生、佐世保航空隊勤務、水上偵察機パイロットとして戦艦陸奥乗組みと、二年ばかりの間に森川の境遇はめまぐるしく変転していた。
 九月、徳山湾に錨を下ろしていた陸奥に、横浜沖において挙行される秋の大演習と大観艦式のお召艦という大命が下った。
横浜沖に向かう陸奥神戸港に寄港した時、森川は初めて郷土訪問飛行をした。
神戸港から播磨灘を西に向かって小豆島まではひとっ飛び、四海村の上空を低空で旋回すると、生家の屋根から日の丸の旗がうち振られているのが見えた。
森川の父親は、息子が飛行機で帰ってくるのに、家がわからないといけないからと、妻とともに屋根に上り、到着する何時間も前から竹竿に日の丸の旗をくくりつけて振り続けていたのである。
 村の浜辺には、先生に引率された小学生だや村人だけでなく、飛行機を一目見ようと、夜明け前から弁当持ちで集まった小豆島各地の島民で、見渡す限り埋め尽くされていた。
 島では、隣村へ行くにも交通機関といえば、「チリリン屋」と呼ばれる牛車に相乗りするか、渡海の機帆船ぐらいで、何里離れていようとも、自分で編んだわらじを履き、てくてくと歩いて行くのがほとんどであった。島に初めてT型フォードが一台導入されたのは大正八年であり、森川が郷土訪問飛行をした翌年の昭和三年十月に小豆島自動車株式会社が設立され、島の東西を結ぶ幹線道路に幌型自動車が走り出した頃など、道路際の小学校では、車が通る時間になると先生が、「もうすぐ自動車が学校の前を通りますので、みんな勉強を止めて窓のところに集まりなさい」と告げて、先生も児童も歓声を上げながら自動車を見送ったというエピソードが残されているほどである。生まれて初めて、空を飛ぶ飛行機というものを見るという島民がほとんどであった。
 森川が村の沖合に一四式水上偵察機を水飛沫とともに着水させると、浜から出迎えの手漕ぎ舟が何十艘も先を争って漕ぎ出し、一四式水上偵察機を取り巻いた。
故郷伊喜末の浜辺に降り立った森川は、万雷の歓声に包まれた。
村長を初めとした村人にもみくちゃにされるという大歓迎を受けた森川に、陸奥への帰投の時間が近づいた。一四式水上偵察機の操縦席に乗り込んだ森川は、離水すると浜辺を埋め尽くす島民の頭上を、翼を傾け二度、三度と旋回をした後、機首を東に回らした。