森川・パイロットとしてリンドバーグの偉業に心を高鳴らせる。

一四式水上偵察機の揚げ降ろしには、主砲などの射撃を担当する陸奥第三分隊があてられていた。分隊長は、大正十三年に摂政宮(昭和天皇)と結婚した久邇宮良子女王の兄である朝融王であった。
朝融王は、青年士官らしく地味な揚収作業よりも、大空を自由に舞い飛ぶ飛行機に興味を抱き、一四式水上偵察機の操縦席に乗り込んでは、森川に飛行機の構造や操縦の仕方を再三たずねた。
 やがて、それだけには飽きたらず、「一度飛行機に乗ってみたい」と言い出したが、朝融王附きの武官は、万が一の事があってはと、懸命に押しとどめた。
森川は、一四式水上偵察機をバックに飛行服姿の朝融王の写真を、終生大切に保管していた。これは、「乗れないのならばせめて」ということで、飛行服や手袋、飛行靴など飛行機搭乗員としての装具一式を取り寄せて写真撮影したものであった。
 朝融王は、水上飛行機とかかわり合いが深く、昭和十三年には海軍最大の飛行艇部隊である横浜海軍航空隊の副長に補された後、木更津、高雄、七五三航空隊の司令、一九及び二〇連合航空隊の司令官を歴任することになる。
「一四式水上偵察機陸奥に揚収されるまで気を抜けませんでした。特に長門の横山三等兵曹とは何かと比較されました」
と森川が述懐しているように、長門では二番艦陸奥が竣工して以来、「陸奥に負けるな」という合い言葉のもと、訓練はもとより、あらゆる面においてライバル意識をむき出しにしていた。
長門の乗組員は、長門型戦艦の一番艦であり、「天下第一戦艦」という自負があり、陸奥の乗組員には、「陸奥長門、扶桑山城、伊勢日向、金剛比叡、榛名霧島」の順だとか、「む・陸奥長門は日本の誇り」と物識りカルタに描かれているように、「長門陸奥ではないぞ、陸奥こそ天下第一戦艦だ」という自負があった。このため、両戦艦の乗組員は入港地や上陸地でよく諍いを起こした。
森川もまた、長門に乗組んでいる横須賀航空隊の横山三等兵曹と、弾着観測、発射魚雷の追跡監視、偵察などの飛行訓練を初めとして、連合艦隊の乗組員数千人の目が注がれる離着水、艦への揚収の模様などは特に比較され、技量の優劣を問われた。
 森川が横山三等兵曹に劣ることは、ひいては陸奥長門に劣ることである。さらには、佐世保航空隊が横須賀航空隊に劣るということにつながる。森川は、飛行練習生の先輩である横山三等兵曹に負けないよう、持てる技量と創意工夫を振り絞って訓練に取り組んだ。
その間、森川を、そして世界中をあっと言わせるビッグニュースが駆けめぐった。
昭和二年五月二十三日、国内各新聞は、『大西洋横断飛行機無事パリーに着く』、『ニューヨークから無着陸でリンドバーグ大尉の大成功』という見出しで、二十五歳の無名の青年パイロットによる大西洋無着陸横断飛行が成功したことをいっせいに報じた。
二十日午前七時五十二分、アメリカの航空郵便パイロット、チャールズ・A・リンドバーグ元陸軍大尉操縦の「スピリット・オブ・セントルイス号」は、パリのル・ブールジェ空港を目指し、ロングアイランドルーズベルト飛行場を飛び立った。
 このスピリット・オブ・セントルイス号(ライアンNYPー一型)は、カリフォルニア州サンディエゴにあるライアン・エアロノーティカル社のM2旅客機を、ドナルド・ホールの手により大西洋無着陸横断のため必要な千二百四十七リットルものガソリンを搭載出来るように改造された長距離飛行用の特別機であった。高翼単葉、機体は金属と木材の混合、羽布張り一部金属製、全幅十四・〇二メートル、全長八・四一メートル、自重九百七十五キロ、ライト・ホワールウインドJ5C空冷式星型九気筒二百二十三馬力発動機一基搭載、巡航速度百六十キロ、最高速度二百八キロ、飛行中の空気抵抗を極力減らすためにコックピットの窓は側面しかなく、前方視界は小さなペリスコープ(潜望鏡)でうかがうというものであった。
 リンドバーグは、セントルイス号に無線機もパラシュートも積まず、その代わりガソリンを目一杯に詰め込むと、襲いくる寒さと睡魔に耐えながら、距離にして五千八百九キロ、飛行時間三十時間三十分にわたって大西洋上を飛び続け、パリのル・ブールジェ空港に無事着陸した。
 その時、リンドバーグの口から発せられた、「翼よ、あれがパリの灯だ」という言葉は、世界中のパイロットの心を熱くかき立てるものとなった。
一九〇三年(明治三十六年)、ライト兄弟が世界で初めて動力飛行機「ライト・フライアー号」を飛ばしてから、わずか二十五年足らずの間に飛行機は、その質、量とも驚異的な進化を遂げていた。特に一九一四年に勃発した第一次世界大戦は飛行機の進化に一層の拍車をかけ、欧州戦に戦闘機が登場して華々しい空中戦が行われ、大戦中に生産された飛行機の数は十七万七千機余りにも上り、発動機や機体、パイロットの飛行技術を飛躍的に向上させた。大戦終了後、動力飛行機発祥の地アメリカでは、それらの飛行機を民間に安価で払い下げた。また、大戦中に大量に養成されたパイロットの多くは、農薬散布、郵便、旅客輸送、遊覧飛行、空中サーカスなどの仕事に従事した。リンドバーグ元陸軍大尉も郵便輸送に携わるパイロットの一人であった。
ちなみに、これはあまり知られていないけれども、太平洋無着陸横断飛行を成し遂げたのも、アメリカ人パイロットであった。
 リンドバーグの偉業から四年五ヶ月後の昭和六年十月四日午前七時一分、青森県三沢村淋代海岸の砂浜に設けられた臨時滑走路を離陸した空中サーカスの名コンビ、パングボーン、ハーンドンの二飛行士操縦の「ミス・ヴィールド号」は、太平洋を偏西風に乗り横断飛行し、翌五日午前七時十一分(現地時間)、ワシントン州のコロンビア川畔のウェナッチーに胴体着陸した。青森県三沢村からワシントン州ウェナッチーまで、距離にして七千九百八十二キロを、四十一時間四分で翔破、燃料がギリギリのため、洋上で車輪を投下するという決死の飛行であった。
 森川は、同じパイロットとして、大西洋無着陸横断というリンドバーグの偉業に驚きながら、陸奥での飛行訓練に励んだ。