「陸奥」はじめての40センチ主砲弾着観測・連合艦隊航空参謀は大西瀧治郎であった。

 森川が初めて弾着観測をしたのは、宿毛沖で行われた陸奥長門の二戦艦による甲種戦闘射撃訓練であった。
戦艦の主砲の斉射は、戦技演習の花形であり、その中でも陸奥長門の四十センチ主砲の斉射は、全海軍注目の的であった。
戦闘射撃訓練は、五万メートル先を航行する標的(ポンツーン・鉄製浮き桟橋にマストを立てたもの。曳標艦に曳航されている)を、前檣楼上の十メートル測距儀で測距することから始まる。
陸奥が主砲を撃つ場合、露天甲板にいる乗組員は艦内に待避したように、森川は一四式水上偵察機を飛ばさなければならなかった。四十センチ主砲の爆風と震動は凄まじく、後檣と第三砲塔との間に設けられた搭載装置に固縛されているだけの一四式水上偵察機など、たやすく破損させてしまうからである。
 陸奥航空長の峯松大尉より弾着観測の命令を受けた森川、増田偵察員、松崎電信員が搭載装置上の一四式水上偵察機に乗り込むと、水偵楊収用デリックによって吊り揚げられた一四式水上偵察機は、デリックフックの先端に取り付けられている布製の小さなバケットに乗った兵の合図で陸奥から海原に降ろされる。バケットの兵によって、デリックフックから一四式水上偵察機主翼中央重心点に設けられているスリング(吊揚索)が外されると、偵察員は主翼上面に身を乗り出して、スリングを翼上の留め金具に固縛する。森川は、これら一連の作業終了を待って一四式水上偵察機を離水海面へと誘う。と同時に、海原に止まっていた陸奥がおもむろに動き出すのである。
陸奥は、前を走る旗艦長門との同航砲撃のために針路を変え、第三戦速に増速、左舷前方真方位三百十五度、水平線上二万四千メートルの有効射程距離(最大射程の約八割)にまで距離を詰め、一番主砲、二番主砲の交互一斉打方を開始する。
 砲撃の瞬間、砲口から十数メートルに及ぶ緋色の火焔がほとばしり、鉛筆の芯のような重量一トン余りの徹甲弾が、秒速七百八十メートル、マッハ二・八という超音速で標的に向かって飛んで行く。そのコンマ何秒かの後、轟音と強烈な震動とともに赤褐色の砲煙が陸奥の巨体を包み込むように立ちこめ、左舷側の海面は爆風で波立ち白濁する。それから三十秒余り後、標的の周りをほぼ垂直に落下(大落角砲弾)した四発の四十センチ徹甲弾は、一発あたり直径八十メートル、高さ百五十メートルにも及ぶ巨大な水柱を林立させ、散布界を形作るのである。
 森川が陸奥の上空五百メートルまで一四式水上偵察機を上昇させ、八の字を描くように旋回させる。双眼鏡で標的と水柱の遠近をうかがっていた増田偵察員が、「弾着(だんちゃーく)、近弾」、「遠弾」と松田電信員に伝えると、松崎電信員は、「トン(近弾)」、「ツー(遠弾)」と陸奥に向かって打電する。これを受信した陸奥では、苗頭を修正して第二射を撃つのである。
 一四式水上偵察機に搭載されている無線機は、送信機と五十メートルほどの空中線(垂れアンテナ)だけで受信機はなく、陸奥からの返電を受けることは出来ない。森川は、増田偵察員が弾着を視認しやすいように、一四式水上偵察機の機位に気を配って飛んだ。
 これまで数々の戦記物や回想録などには、弾着観測といえば、「敵艦近くの上空に水上偵察機を飛ばし、自艦の弾着を観測させるために戦艦や巡洋艦に三座水上偵察機を搭載していた」という意味合いのことが書かれているのを散見するが、森川は、陸奥での弾着観測について、
「標的の近くを飛んで弾着を観測することもありましたが、通常は陸奥の五百メートル上空を八の字を描いて飛び、偵察員が双眼鏡で弾着を確認すると無電で連絡していました」
 こう回想しているように、陸奥の上空から弾着を確認する高空俯瞰観測が主であった。
太平洋のうねりを蹴立てて進む陸奥長門から四十センチ主砲が撃たれた瞬間や、立ち上る弾着の巨大な水柱の光景を、空から見ることが出来るのは、パイロット冥利に尽きるものであった。
 森川にとって、陸奥での飛行訓練は、初めて経験する、強い緊張感を伴うことばかりであった。
 海は、季節や天候の変化によって千変万化に豹変する。油を流したようにねっとりと静まりかえっていた群青の大海原が、天候の急変とともに鉛色へと様相を一変し、白い牙をむいて果てしなく波立つ。空も同じであった。
霞ヶ浦航空隊での飛行練習生時代や佐世保航空隊では、天候が悪化した場合、よほどのことがない限り飛行訓練は中止となったが、陸奥での艦隊勤務は、太平洋、日本海、東支那海などの外洋での訓練が多く、大海原へ降ろされた水上偵察機の離着水の状況は刻々と異なり、パイロットは風力、風向き、潮流、波浪、母艦の位置などを的確に把握して離着水しなければならない。また、これは当然のことながら、飛行訓練中に天候が悪化して海が荒れた場合でも、必ず陸奥の近くに着水して揚収してもらわなければならない。外洋での大きなうねりと風浪は、それまで森川が訓練に励んでいた霞ヶ浦の湖水や波穏やかな大村湾と違い、危険度は桁違いに大きかった。
 訓練を終えた森川は、陸奥の上空を旋回しながら着水許可の合図を待ち、陸奥より合図がありしだい、風上に向かって一四式水上偵察機を着水させる。荒れた海原の場合、波頭にフロートをドスン、ドスンと打ちつけながら、うねりの頂から谷間に滑り落ちるように着水する。この時、ジャンプしたり、フロートの先端や主翼端が波にすくわれると、つんのめるようにして機首から海に突っ込んでしまう。
無事に着水しても、陸奥の舷側に一四式水上偵察機を近づけなければならない。これが一苦労であった。
 発動機の回転とあて舵に気を配りながら陸奥の右舷艦尾に近づき、一四式水上偵察機主翼端を、陸奥の舷側まで一間半ほど(約三メール)にまで近づける。その間、偵察員は上翼に這い上がり、陸奥の楊収用デリックから垂れているワイヤー先端のフックにスリングを引っかけようと待ちかまえる。
陸奥の分厚い舷側装甲に、木骨羽布張りの主翼端が触れれば、ひとたまりもない。巨大な陸奥に近づくにつれて、その威圧感に襲われ、無意識の内に陸奥から距離をとろうとする。そうなってしまえば、偵察員がスリングをデリックフックに引っかけることが出来ないばかりか、もう一度右舷艦尾から近づくために、陸奥をやり過ごし、大きく水上旋回しなければならない。時間もかかる上に、水上旋回中に横風を受けてしまう。
着水し水上滑走する水上機は、もはや飛行機ではなく、舟であった。舟には、「行き脚」と「死に脚」がある。櫓やスクリューの推進力で進む行き脚は、舵取りの意のままになる。櫓やスクリューを停止して惰力で進むのが死に脚である。舵は利かず、舟は潮に流され風にあおられる。森川が陸奥を怖がり発動機を絞れば、一四式水上偵察機は死に脚となり、波と風になぶられる。飛行機の三舵は、風の抵抗を受けるからこそ利くのである。一四式水上偵察機陸奥にぶつけるくらいの気持ちで接舷させ、上下左右に揺れながら垂れ下がっているデリックフックの手前で発動機を一吹かしさせて行き脚を利かせた後、スロットルを絞りデッドスローにしなければならない。しかも、水上機は舟と違ってゴースタン(後進)は出来ない。
森川が一四式水上偵察機陸奥に寄り添うように近づけると、揚収を担当する陸奥第三分隊分隊士が舷側の手すりから身を乗り出し、「ちょい左、」、「そのまま、そのまま、ヨーソロー」と指示を出す。森川はそれにしたがい、頃合いを見計らって発動機を一吹かしさせ、行き脚をつける。上翼に立つ偵察員は、腰とつま先で調子をとりながらデリックから垂れ下がっているフックにスリングを引っかける。と同時に、デリックのウインチによって艦上に吊り揚げられた一四式水上偵察機は、後檣と第三主砲との間に設けられた搭載装置に収納され、発動機と機体前部に防水シートが被せられるのである。
 水上偵察機揚収作業は、陸奥が碇泊していればまだしも、艦隊訓練中にはもう一度やり直しなどという悠長なことは許されない。もたもたしていれば、機関を停止して洋上を漂う陸奥は潜水艦の絶好の的となる。そのため水上偵察機の揚収は、何よりも迅速を求められた。奄美大島方面の海域で行われた戦技演習の時など、一四式水上偵察機が吊り上げられたと思う間もなく陸奥が動き出し、風と陸奥の振動でゆらりゆらりと揺れながら揚収されるということもあった。
 荒れた外海での水上偵察機の揚収は、パイロットや偵察員ばかりでなく、揚収を担当する陸奥第三分隊双方に、創意工夫と熟練が求められた。
何しろ戦艦に飛行機を搭載すること自体、初めての試みであった。パイロットである森川も初めてならば、陸奥の乗組員も初めてのことである。訓練が終われば、科長の峯松大尉以下陸奥航空科分隊全員で、ここはこうしたほうがいいだとか、悪いだとかの検討会が始まる。時には、連合艦隊航空参謀である大西瀧治郎中佐が、検討会に顔をのぞかせることもあった。