ペンネットは「大日本軍艦陸奥」、花の一等水兵でパイロット

 佐世保海兵団出身の水兵にとって、数ある佐世保鎮守府艦籍の軍艦の中で最高峰に位置していたのは陸奥であり、佐世保の街のみならず、呉や横須賀に上陸しても、陸奥の乗組員だと一目置かれ、肩身の狭い思いをせずにすんだ。敷設艦常磐という艦齢二十五年を超えた老朽艦に乗組んでいた森川は、そのことをよく知っていた。
 ジョンベラ姿、ペンネットは「大日本軍艦陸奥」でありながら、海軍航空隊のパイロットの証である左腕にトンビのマークを付けた森川は、どこへ行っても羨望の眼差しで見られた。
陸奥への乗組みを命じられた時には、霞ヶ浦を卒業して航空隊で半年しか訓練を積んでいない私が幾多の先輩パイロットをさしおいて、なぜ選ばれたのかわからず、キツネにつままれたような思いをしました。たぶん飛行機乗りは消耗品だから航空隊で一番若い自分が指命されたのだと考えることにしました。しかし、自分にとっては名誉なことだし、パイロットとして腕を磨くには絶好の機会だと思いながら陸奥に乗組みました」
森川は、突然の陸奥乗組みについて、こう語っているが、森川がキツネにつままれたような思いをしたのも無理はなかった。パイロットとして航空隊に勤務してわずかに半年余り、二十歳の、雛鷲からようやく若鷲になったばかりであった。森川でなくとも、水上機母艦「若宮丸」や特務艦「高崎」に乗組み、大正八年、十三年の大演習に参加した老練な水上偵察機パイロットが佐世保航空隊に数多くいたからである。
 また森川は、飛行機乗りは消耗品だから航空隊で一番若い自分が指命されたのだと考えることにしましたと述懐しているが、連合艦隊旗艦やお召艦を務める陸奥に、技量の劣るパイロットを乗組ませるわけがない。森川が佐世保航空隊でもっとも年少ながら、パイロットとしての優れた技量と資質が認められたからこその、異例の大抜擢であった。
 国にいったん事あらば、連合艦隊の旗艦として数百隻の艨艟をその指揮下におく、世界最強の戦艦陸奥長門に乗組むということは、およそ帝國海軍の軍人として最高の栄誉に属することである。陸奥の千三百名余りの乗組員は、佐世保鎮守府が選りすぐった下士官兵と、全海軍から選抜された士官であり、歴代艦長は、近い将来海軍を背負って立つ現役大佐の俊英が就任していた。
 森川が陸奥に乗組んだ大正十五年十一月十五日の艦長は、兵学校三十三期の池田他人大佐であった。池田大佐は十二月一日、陸奥を退艦。新艦長は海兵三十一期百八十八名の首席卒業者である枝原百合一大佐。枝原大佐の後任は、兵学校三十二期の首席卒業者で、国際連盟の海軍代表としてヨーロッパに出張して帰朝した堀悌吉大佐であった。ちなみに、池田大佐の前任艦長は、後年連合艦隊司令長官海軍大臣内閣総理大臣などを歴任する米内光政大佐(海兵二十九期)であった。
 枝原大佐が陸奥の艦長時代、前を走る長門の艦尾に危うく突っかけそうになるということがあった。
 旗艦長門を先頭に、二番艦陸奥、三番艦扶桑、四番艦日向が、定常距離六百メートルをとりながら単縦陣で航行していた時のこと。陸奥航空科分隊の航空長を務める峯松大尉が二時間交代の当直将校に立ち、操艦を引き継いだ。
 峯松大尉は兵学校卒業後少尉候補生として練習航海、任官して軍艦乗組みと兵科将校として一通りのことは経験していたが、飛行学生であったため、陸奥のような大艦は初めてだった。
 前任の当直将校からの引継ぎをすませた峯松大尉は、「当直交代、両舷前進、機関回転数八十」と機関科指揮所に連絡した。
 しばらくすると、前を走る長門との六百メートルの定常距離が徐々に縮まり始めた。
 基準速力が前進原速と定められていても、走っているうちに、ほんのわずかながら速力の差が生じ、各艦の間隔が近づいたり遠ざかったりする。そこで、前を走る一番艦と定常距離を一定に保つために、操舵室のテレグラフ(速力通信機)に付属している回転調整装置を使って、赤(回転増)、黒(回転減)とスクリューの回転を細かく増減しなければならない。しかし、陸奥が速度の増減を繰り返せば、後続する三番艦伊勢、四番艦日向もそのたびに増減しなければならない。ここが二番艦のつらいところであり、当直将校の腕の見せ所であった。
「五百五十、近づきまぁーす」、
「五百、近づきまぁーす」、
「四百五十、近づきまぁーす」
 峯松大尉は、艦橋から携帯用測距儀を使い、前を走る長門との距離を測っている水兵の声を聞くたびに、黒一、黒二と回転を落としていったが、六十回転を割っても長門との距離は縮まる一方だった。ついには三百メートルという至近距離にまで近づいた。
長門との追突をまぬがれるために変針すると、それまでの整然としていた単縦陣が乱れるばかりでなく、設定針路を外してしまい、当直将校のもっとも嫌う「山船頭」というレッテルをはられてしまうが、たまりかねた峯松大尉は、操舵員に向かって「取り舵」を命じた。
 と、その時、「当直将校は何をしている。機関停止、機関停止」と怒鳴りながら艦橋に飛び込んできたのが、艦長の枝原大佐であった。
 峯松大尉は、飛行士官である。軍艦と異なり、空を飛ぶ飛行機において発動機を停止させるということは、墜落を意味する。飛行機では、前後、左右、上下という三次元の編隊飛行を難なくこなす峯松大尉だったが、機関を停止させて陸奥の行き脚を一時的に止めるということは思い浮かばなかったのである。
 枝原大佐は、翌昭和二年十二月一日、陸奥を退艦、少将に進級すると霞ヶ浦航空隊司令に転補。その後、第一航空戦隊司令長官、海軍航空廠廠長と一貫して航空畑を歩み中将に進級、旅順要港部司令官を最後に予備役となり、森川がテストパイロットとして活躍していた川西航空機の顧問として就任し、森川と陸奥時代の昔話に花を咲かせることになる。
 森川は、一等水兵ながらパイロットということで、石炭積込みや船底に付着した蛎殻の除去、錆落とし、ペイント塗りなど、水兵としての通常使役を免除された。
陸奥は、それは大きな軍艦でした。私は佐世保の海兵団を出て常磐という古い軍艦に乗っていましたので、初めて陸奥に乗った時など、どっちがおもて(舳先)でどっちが艫かわからなくなり、船の中で迷いそうになりました。私は一等水兵でしたが、パイロットということなので、准士官室一部屋用意してくれていました。そこで偵察の増田、電信の松崎らと寝起きしました。これは普通では絶対に考えられないことです。また、石炭の積込みをしなくていいと言われた時は、本当に嬉しかった。水兵にとって石炭の積込みは、それはつらいものでした」
 陸奥の心臓部である機関部のボイラーは、十五基の重油専焼罐と六基の重油石炭混焼罐で、昭和十二年の大改装まで重油と石炭が焚かれていた。
 これは、飛行機の燃料であるガソリンやオイルと同じように、重油のほとんどをアメリカから輸入していたからである。そのため陸奥は、徳山燃料廠(旧徳山煉炭製造所)が開発した北朝鮮平壌産の無煙炭を原料とした高カロリーの煉炭を焚いて補機類などの運転を行っていたのである。
 この重箱大の大きさの煉炭の積込みは、石炭粉と流れる汗で顔は真っ黒になり、皮膚はガサガサに荒れてしまう。軍艦への搭載作業の中で、兵隊がもっともいやがったのが、この石炭積込みであった。森川は、石炭船であった常磐での、つらく苦しい石炭の積込み作業を、身をもって知っていた。また、陸奥が大艦といえども、水兵、機関兵など兵隊は、すべてハンモックであった。森川は一等水兵ながら一部屋もらい、さらに水兵としての通常使役を免除されているということなど、官位絶対主義の海軍の常識からは考えられないことであった。
 森川が陸奥に乗組み、満面の笑みを浮かべた飛行服姿の写真を写した四日後の大正十五年十二月二十五日、蒲柳の質であった大正天皇葉山御用邸において、「御脳力次第ニ弱ラセ給ヒ」という状態におちいり、御歳四十八歳で崩御した。摂政宮裕仁親王が第百二十四代皇位を継ぎ、大日本帝国憲法下の統治権統帥権の総覧者となり、元号は『書経』の「堯典」にある「百姓昭明、萬邦協和(国民は明るく、世界は平和に)」から採択されて、「昭和」と改元された。
 昭和二年一月、陸奥は生まれ故郷である横須賀海軍工廠において、艦首の改造工事に入った。
 陸奥の艦首は、日本海軍の秘密兵器の一つである連繋式浮遊機雷(一号機雷)の連繋索を乗り切るために、喫水部で約六十度の傾斜をもち、上部で垂直となる独特の形状(スプーン・バウ)であった。しかし、この艦首は波切りが悪く、荒天や高速航行時には波飛沫を艦橋まで舞い上がらせるばかりでなく、前甲板の四十センチ主砲や八メートル砲塔測距儀に悪影響を与えていた。これを減じる対策として、艦首先端上部の菊の御紋章取り付け部分を延ばし、フレアー(反り)付きに改造したのである。
陸奥は、この艦首改造工事が終わると、山口県三田尻沖に向かった。
 昭和二年の連合艦隊は、司令長官加藤寛治中将(海兵十八期)、参謀長高橋三吉少将(海兵二十九期)、先任参謀近藤信竹中佐という陣容であった。
 司令長官の加藤中将は、前任の岡田啓介大将と違い、「百発百中の砲一門は百発一中の砲一門に勝る」、「訓練に制限無し」という東郷平八郎元帥の信奉者であり、参謀長高橋少将、先任参謀近藤中佐とともに、艦隊決戦、大艦巨砲主義軍縮会議反対を唱える「艦隊派」の中心人物であった。
二月十四日、三田尻沖に碇泊していた連合艦隊は、広海軍工廠近くの海岸に臨時水上偵察基地を設け、陸奥長門水上機母艦能登呂」(搭載水上偵察機、前甲板に四機、後甲板に四機、格納庫に二機)に搭載されている一四式水上偵察機九機をもって空中分列式を催した。二月十六日、三田尻において観兵式。十八日、再び空中分列式を催した。森川は、これら空中分列式に、第二小隊の三番機として参加した。
 その後、連合艦隊は佐伯湾に向かい移動戦技訓練を行いながら、三月三十日、東洋のベルリンと呼ばれる青島に、続いて芝罘、四月上旬に旅順と寄港し内地に帰ってきた。この航海中、加藤中将は大将に進級した。