陸奥、弾着観測のため一四式水上偵察機を搭載。森川、艦隊勤務はじまる

 パイロットである森川が陸奥乗組みを命じられたのは、その陸奥長門に水上偵察機を搭載し、空からの俯瞰弾着観測を試みようとしたからである。
 陸奥長門などの戦艦に搭載されている主砲は、海軍の戦闘能力を誇示するものであり、日本のみならず欧米各国の海軍も、戦艦に大口径の主砲を競って搭載しようとしたが、主砲の口径が大きくなればなるほど、砲戦開始距離は延びる一方であった。日本海海戦では、ロシアのバルチック艦隊は約八千メートル、日本の連合艦隊は約六千メートルで砲撃を開始しているが、第一次世界大戦直前では一万メートル、大戦中は一万五千メートル、大戦後は二万メートル以上にまで延びていた。
 陸奥に搭載されている四十五口径三年式四十センチ主砲八門は、最大仰角三十度、強装薬装填時最大射程距離三万メートルを誇り(昭和十二年の大改装前)、三万トンクラスの敵戦艦に対して、四十センチ主砲弾を十発から十二発命中させれば、敵戦艦の能力は半減し、二十発余りで廃艦に追い込めるとされていたが、それはまともに命中しての話。軍艦同士の砲戦は移動目標射撃である。搭載する主砲弾で二十キロ、三十キロ先の洋上を二十五ノット以上の高速で航行する敵艦を撃沈するには、測距儀で捉えた敵艦の方位と距離をもとに、主砲弾の飛翔中に敵艦が移動するであろう予測の距離と方位を算出し、その予想(シュミレート)した到着点に正確に着弾させなければならない。
 陸奥の場合、前檣楼上の七年式十メートル双眼合致式測距儀で測定された敵艦との距離や方位などの数値は、前檣楼喫水線下部にある主砲発令所に送られ、数千の歯車を組み合わせた機械式コンピュータともいえる精巧な射撃盤で、敵艦の的針(方位)、的速(速力)、自針(自艦の針路)、方向などが千分の一単位で計算され、それらデータ(照尺量)は前檣楼頂部にある方位盤に送られて主砲の俯仰角、旋回角度が算出され、初弾が撃ち出されると大口径望遠鏡で弾着の水柱を観測し、その遠近、左右のズレを迅速に修正しながら二射、三射と連続砲撃するのが一般的な主砲の射法であった。
 しかし、二万メートルを超える遠距離では、敵艦及び自艦の針路、速力と距離、風速や風向きの変動、自艦の上下、左右の傾斜、砲塔位置の潜差、使用砲弾の種類、大気の温度と湿度、発射火薬(装薬)の種類、量と乾湿、効率係数、経年変化を初めとして砲齢、天候や海面の状態の変化、地球の自転速度に至るまでさまざまな要因が弾着に影響を与える。遠距離砲戦で主砲弾を敵艦に命中させるには、弾着時に立ち上る水柱から、いかに正確な「苗頭(主砲弾が敵艦の到達地点に命中するよう照準器に与える修正値・ラジアン角)」を把握するかにかかっていた。
日本海海戦において、連合艦隊は約六千メートルで砲撃を始め、圧倒的な勝利を収めたが、主砲弾の命中率は百発撃って三発、わずか三パーセントといわれていた。その後、日本海軍の砲撃技術は猛訓練による熟練と諸計器、特に測距儀などの光学機器の飛躍的進歩により、森川が水上偵察機を使って弾着観測を始めた昭和二、三年頃は、二万五千メートル先の標的艦に対して常時十パーセント以上の命中率にまで上がり、昭和十四年度の甲種戦闘射撃訓練において戦艦「金剛」は、射撃距離三万千二百五十メートルにおいて散布界百三十七・九メートル、命中率二十二・三パーセントという驚異的な記録を達成したのである。
 ちなみに散布界とは、弾着範囲を示す指標で、この数値が少ないほど砲弾が密集して弾着していることをあらわしている。この散布界の中に敵艦を捕捉したことを「夾叉(きょうさ)」と呼び、この夾叉が続けば砲弾の弾着範囲と敵艦の位置が交差し、確率論的に命中弾が出るのである。
 海軍は、戦艦や巡洋艦の主砲の命中率を引き上げ、その威力を最大限に発揮させるために、それまでさまざまな手法を試みていた。
二万五千メートルを超える遠距離砲撃の場合、弾着観測は海面から三十メートル余りある陸奥の前檣楼頂部からでも、敵艦の船影がかすかに視認出来る程度であり、双眼鏡などの光学機器測定では、弾着の左右のブレは比較的視認しやすいが、遠近はわかりにくい。そこで、檣楼頂部よりもさらに高いところからの正確な弾着観測を行うために、気球による弾着観測が導入された。
 気球を使って空からの弾着観測をという発想の歴史は古く、維新の動乱からわずか十年後に勃発した西南戦争にまでさかのぼる。政府軍は西郷軍の動向を空から探ろうと工部大学などに気球の試作を命じた。これは実用にはならなかったものの引き続き気球の研究、試作は続けられ、実際の戦闘に使用されたのは、日露戦争の旅順攻略作戦の際、乃木軍が気球を使い、偵察や山砲の弾着観測を行ったのが最初であった。
 大正七年、海軍は主砲の弾着観測と発射魚雷の航跡監視などのために、繋留気球による弾着観測の手法をイギリスから導入した。戦艦や巡洋艦の艦尾から観測士官を乗せた気球を揚げ、その曳航索に電話線を這わせ、弾着までの時間や水柱の遠近、散布界の状態を主砲発令所の砲術長に有線電話で連絡するという空からの俯瞰弾着観測であった。
 陸奥長門などの戦艦の艦尾に、遠距離砲戦での弾着観測用としてカッター式繋留気球(一〇式繋留気球・気嚢容量九百三十立方メートル・イギリス製繋留気球のライセンス生産品)が搭載され、高度二百メートルから三百メートル上空に上げられて弾着観測が行われたが、動きのない陸上と違い、大海原を二十ノット以上の高速で航行する戦艦や巡洋艦から曳航索で引っぱられる気球の上下左右のガブリ(揺れ)は凄まじく、海が荒れている時など、気球に乗組んでいる観測士官は疲労困憊し、二時間ともたなかったこともたびたびであった。また、気球は敵艦や弾着の様子を見やすいという利点はあったが、逆に図体の大きな気球を打ち上げていると敵艦からも自艦を発見されやすい。さらに、気嚢に充填されている水素ガスが爆発、墜落するなどの欠点が露呈した。
 そこで、第一次世界大戦後半、イギリス海軍が戦艦の主砲塔上に滑走台を設けて陸上機を発艦させ、北海作戦での偵察や観測に使用したのに倣い、横須賀軍港外猿島沖において、戦艦「山城」の二番主砲塔上に仮設した滑走台からスパローホーク艦上戦闘機を発艦させるという手法が試みられた。この発艦試験は三度行われ、すべて成功を収めたが、肝心の主砲を撃つことが出来ず、その後取りやめとなった。
 大正十一年に入ると、気球に代わり飛行機を使った高空弾着観測の研究、実験が開始された。
 これは、第一次世界大戦において青島攻略に活躍した水上機母艦「若宮丸」に、六機の横廠式ロ号甲型水上偵察機を搭載させ、射撃艦の五百ないし千メートル上空から弾着の遠近を無電で通報するというものであったが、いざ演習が始まると、飛行機や無線機の信頼性、速力の遅い旧式の水上機母艦を艦隊に随伴させなければならず、実用の目処がつかなかった。
アメリカ海軍では、すでに水上偵察機を艦船から直接飛び出たせる射出機(カタパルト)が実用化され、戦艦や巡洋艦に搭載されていたが、日本海軍では未だ研究、開発の途中であり、実用化には後数年はかかるとされていたため、海軍は国産カタパルトの実用化までのつなぎとして、大正十四年五月、長門の前部甲板に水上偵察機揚収用デリックを仮設し、二番主砲塔上にハインケル式滑走台を装備し、ハインケルHE25複座水上試作機を発艦させ、デリックで揚収したが、戦艦山城の実験と同じく、主砲塔上に滑走台を設けたため、肝心の四十センチ主砲を撃つことが出来ず、取りやめとなった。
 しかし、遠距離砲戦の命中精度を上げるためには、光学機器測定の性能不足を補う高空弾着観測は不可欠であった。アメリカ海軍が水上偵察機を飛ばして弾着観測を行っている以上、国産カタパルトの実用化を待つなどという悠長なことは許されない。一日も早く戦艦や巡洋艦に弾着観測専用の水上偵察機を搭載するということが急務となっていた。
 そこで海軍は、大正十五年六月、予備艦となっていた陸奥の船体後部に設けられていたカッター式繋留気球を撤去し、後檣と第三砲塔との間に一四式水上偵察機の搭載装置を設け、後檣右舷ヤード(信号桁)を強化延長し、水偵楊収用デリックを設置した。艦上から水上偵察機を直接射出するカタパルトの代わりに、デリックで水上偵察機を海原に降ろして離水させ、揚収しようというものである。
 この改装は姉妹艦長門にも行われ、佐世保鎮守府艦籍の陸奥には、佐世保航空隊の弱冠二十歳の森川二等水兵横須賀鎮守府艦籍の長門には、横須賀航空隊の老練な横山三等兵曹が配属されたのである。
 陸奥航空科分隊は、パイロットである森川を初めとして、電信兵、偵察兵、整備を担当する機関兵など総勢十二名。科長は峯松厳大尉、連合艦隊航空参謀は大西瀧治郎中佐であった。
森川は、陸奥乗組みと同時に、「花の一等水兵」に進級した。
 海兵団入団から二年半、飛行術掌飛行兵の特技章の証である左腕にトンビのマークに陸奥乗組みと、志願兵としては極めて順調な進級であった。
十二月一日、陸奥は予備艦から連合艦隊第一艦隊第一戦隊(旗艦は長門陸奥、扶桑、日向。第一戦隊の旗艦が連合艦隊の旗艦を務める)の二番艦として編入された。
二十一日、陸奥後部第三主砲塔前で、飛行服を身にまとった森川は腰に両手をやり満面の笑みを浮かべた写真を写した。