森川、連合艦隊旗艦「陸奥」の初代水偵搭載パイロットとなる。

 大正十五年六月一日、佐世保鎮守府所属の五名の内、森川ら水上機専修者三名は佐世保海軍航空隊水上機隊に、陸上機専修者二名は大村海軍航空隊陸上機隊に配属された。
 佐世保海軍航空隊(通称・佐空)は、我が国最初の海軍航空隊である横須賀航空隊に遅れること四年余り後の大正九年十二月に、佐世保軍港の玄関口、百間鼻と久木島との間の土地約八万坪を航空隊用地として開隊され、水上機隊が置かれた。(霞ヶ浦航空隊は大正十一年十一月、大村航空隊は同年十二月に開隊)。佐世保航空隊は、搭乗員養成や飛行機に関する研究が主務の横須賀航空隊と異なり、海軍航空隊としては初めての実施部隊(実戦用航空隊)であった。初代航空隊司令は、大正二年十一月十二日に横浜沖で催された観艦式においてモーリス・ファルマン式水上機を飛ばし、海軍パイロット第一号となった金子養三中佐であった。
 その頃、四面を海に囲まれた日本だけでなく、飛行機の先進国である欧米においても、航空母艦搭載の艦上機や大型陸上機は未だ研究開発の途中であり、飛行機はあくまでも艦隊決戦の際に偵察や哨戒、弾着観測などを行ってこれを補佐し、必要に応じて爆撃を行う水上機が海軍航空の主力であった。
 敷設艦常磐という老朽軍艦に乗り組んでいた三等水兵が、十ヶ月後には空を飛ぶパイロットとなって佐世保に帰ってきたのである。森川が佐世保の街を歩いていると、すれ違う水兵や士官までもが、二十歳の二等水兵ながら、左腕にトンビのマークを付けている森川を見て、おっとするような顔をした。
 森川は、その頃を回想して、
霞ヶ浦から佐世保に帰り、軍港の第一桟橋からランチに乗って港の入口にある航空隊に向かいました。海兵団時代にカッターでみっちりと鍛えられた辨天島の近くを通りますと、港のあちらこちらで錨を下ろしている軍艦に、衣嚢(衣服一式と寝具の毛布や靴などを入れた袋)を担いだ水兵がタラップを上っていました。ほんの十ヶ月前、自分もああして常磐に乗り組んでいたのだなぁーーと思ったのを、今も覚えています。航空隊の本部は白いペンキを塗った木造の二階建てでした。ポンドには主翼のスパン三十メートルのF五号飛行艇やハンザ水上偵察機、新型の一四式水上偵察機などが焦げ茶色の翼を休めていました。私は二等水兵(航空兵という兵種が作られたのは昭和五年)でしたが、左腕にパイロットの証であるトンビのマークを付けていましたので、佐世保の街ではたえず注目され、同年兵からはずいぶんとうらやましがられました」
佐世保航空隊は、一四式水上偵察機やハンザ水上偵察機などの小型機分隊(第一分隊)と、F五号飛行艇からなる飛行艇分隊(第二分隊)とに分かれていた。
 小型機分隊の主力機である一四式一号水上偵察機(E1Y1)は、大正十年、横須賀海軍工廠(通称・横廠)造兵部飛行機工場において、イギリス・ショート社のフレッチャー技師を中心に設計、試作された十年式水上偵察機を、横廠の志村喜代作少佐と橋本賢舗技師が改修したもので、大正十五年一月二十七日、海軍に制式採用されたばかりの最新鋭機であった。一号型と発動機を換装した二号型(E1Y2)があり、いずれも複葉木骨羽布張り、双フロート、乗員三名、全幅十四・二三二メートル、全長十・七三五メートル、全備重量二・八トン、中島製ロレーン液冷式W型十二気筒四百馬力発動機一基搭載(二号機型は四百五十馬力)、プロペラ型式木製固定ピッチ二翅、最高速度百八十九キロ、巡航速度百三十九キロ、上昇力三千メートルまで二十分、実用上昇限度四千メートル、航続距離千百五十六キロ、武装七・七ミリ機銃×一、三十キロ爆弾×四または百十キロ爆弾×二を懸吊することが出来た。
 一四式水上偵察機は、最高速度と上昇性能は平凡なものの、偵察機に不可欠な安定性に優れ、主として戦艦や巡洋艦水上機母艦の搭載機として昭和九年までに一号型、二号型、三号型合わせて三百二十機(愛知時計電気で二百五十機、横廠で二十三機、中島飛行機で四十七機)が製作されるという長命機で、日本海軍伝統の三座水上偵察機の草分けとなった。
また飛行艇分隊のF五号飛行艇は、センピル航空教育団が教材用飛行艇として持ち込んだショートF5哨戒飛行艇国産化(発動機以外)した海軍初の大型飛行艇であった。
 大正十年、海軍は第一次世界大戦において外洋航空作戦で活躍したイギリス海軍のショートF5哨戒飛行艇九機を分解した状態で輸入し、製作のために来日したショート社のドッズ技師、パーカー飛行士などスタッフ二十一名の指導のもと、横須賀海軍工廠造兵部飛行機工場において組み立てられたショートF5哨戒飛行艇は、それまでの飛行艇と比べ、飛行性能、安定性、実用性に優れ、日本海軍おける飛行艇開発の礎を築いた記念すべき飛行機であった。
 このショートF5哨戒飛行艇国産化したものが、F五号飛行艇であった。陸海軍を通じ日本最大の飛行機で、複葉木骨羽布張り木製艇体、乗員四名から六名、全幅三十一・五九メートル、全長十五・一六メートル、全高五・七五メートル、主翼面積百三十一・三㎡、自重三・七八四トン、搭載量二・〇一六トン、全備重量五・八トン、翼面荷重四十四・一㎏/㎡、馬力荷重八・〇五㎏/hp、イギリス・ロールスロイス社製「イーグル」液冷式V型十二気筒三百五十馬力発動機二基搭載、プロペラ型式木製固定ピッチ四翅、直径三・四〇メートル、最高速度百四十四・四キロ、上昇力千メートルまで十五分、実用上昇限度三千五百五十メートル、航続時間約八時間、武装七・七ミリ旋回機銃×二、爆弾または爆雷四百キロを懸吊することが出来た。輸入組立て分を含め横廠で十機、広海軍工廠で十機、愛知時計電気で四十機の合計六十機が製作され、昭和五年頃まで海軍航空隊の主力飛行艇として、南日本一周飛行、横須賀・大泊間往復飛行、佐世保奄美大島間渡洋飛行、佐世保・大連間渡洋飛行、横須賀・父島間渡洋飛行、佐世保・鎮海間往復夜間飛行など海洋長距離飛行に使用された。
 F五号飛行艇の操縦席には天蓋がなく、風除けとしてガラス板一枚が設けられているだけであった。機首最前席は、離着水時に搭乗員が爪竿を出してブイを引き寄せ、舫綱をもやう通称バーメン席で、観艦式などでは飛行艇隊の指揮官が、この吹きさらしのバーメン席に搭乗して指揮をとった。また、艇体に軍艦旗を取り付ける金具が装着されていたF五号飛行艇は、その悠揚たる姿と相まって「空飛ぶ軍艦」と呼ばれていた。
 森川は、小型機分隊に配属された。小型機で訓練を積み飛行技術に慣熟した後、ベテラン搭乗員で占められている飛行艇分隊に移るのである。
霞ヶ浦の飛行練習生を卒業したということは、「飛行機の操縦の基本を一通り学んだ」ということである。いわば、パイロットとしての出発点に立ったに過ぎない。これから航空隊で訓練を積み重ね、幾多の経験を経て一人前のパイロットとなっていくのである。
「F五号飛行艇はその当時日本最大の飛行機でした。私はF五号飛行艇を見るたびに、早くあれに乗れるようにならなければと思っていました」
森川がこう思ったのも無理はなかった。
 大海原に浮かぶ島嶼部はもとより、湖水さえあれば内陸部へも飛翔することの出来る水上機、それも物資と兵員を高速力で輸送し、敵艦隊への哨戒、索敵、攻撃も可能な飛行艇分隊を有する佐世保航空隊は、別名「艦隊航空隊」と呼ばれ、来るべき洋上決戦の一翼を担うものとされており、その中でも飛行艇パイロットは、航空隊の花形的存在であった。
 森川は、F五号飛行艇パイロットとなることを胸底に抱きながら、一四式水上偵察機やハンザ水上偵察機を使っての訓練に明け暮れた。
 それからわずか半年後の大正十五年十一月十五日、森川は世界最強最速を誇る戦艦「陸奥」に、水上偵察機パイロットとして乗組みを命じられた。
陸奥は、大正七年六月一日、横須賀海軍工廠で起工、九年五月三十一日進水、長門型戦艦の一番艦である「長門」に遅れること十一ヶ月余り後の十年十月二十四日竣工、佐世保鎮守府艦籍に編入された連合艦隊第一艦隊第一戦隊の主力戦艦であった。竣工時の基準排水量は三万二千七百二十トン、全長二百十五・八メートル、最大幅二十八・九六メートル、技本式タービン四基、スクリュー四軸、最大速力二十六・五ノット、航続力十六ノットで五千五百浬、四十センチ主砲八門、十四センチ副砲二十門、八センチ高角砲四門、五十三センチ魚雷発射管八門を装備し、姉妹艦「長門」、アメリカの「コロラド」、「メリーランド」、「ウエスト・バージニア」、イギリスの「ネルソン」、「ロドネー」などとともに、世界の七大戦艦・ビッグセブンと謳われていた。
 特に陸奥長門の二戦艦には、竣工当時世界で二十六基しかないといわれていた四十センチ砲塔が八基搭載されており、太平洋戦争開戦直後に竣工した世界最大の超弩級戦艦「大和」、「武蔵」が登場するまでの二十年余りの間、世界第三位の海軍国日本の栄光の象徴であり、連合艦隊の旗艦、天皇陛下のお召艦をたびたび務めた。また、陸奥長門国威発揚を目的として、その勇壮な姿を雑誌や教科書に掲載されたことから広く国民に知られ、小学生の描く軍艦の多くは、雄大な主砲塔とそびえ立つ前檣楼、後にたなびくように曲がっている巨大な煙突が特徴の陸奥長門であった。