大正十五年五月二十九日、森川は第八期飛行練習生同期十四名とともに卒業式を迎える。

 その年の暮れ、小豆島に帰省した森川は、親戚や友人から求められるままに霞ヶ浦での飛行訓練の模様を話した。
 幼なじみや朋輩からは、「ほう、森川さんは海軍に志願して水兵になったのに、飛行機というものに乗って空を飛んどるんか、ところで飛行機というものはどんなもんかいのう、一度見てみたいものよのう」とか、安政元年生まれの古老からは、「空を飛ぶ・・・勲は天狗の真似をしとるんかい」と言われ、森川は苦笑いせざるを得なかった。
 無理もなかった。瀬戸内海に浮かぶ小豆島の寒村には、まだ電気は引かれてはおらず、石油ランプの生活であった。島の交通機関といえば、荷車やチリリン屋と呼ばれる軽便荷馬車、そして手漕ぎ舟や機帆船であった。自動車さえろくに見たことのない村人が、空を飛ぶ飛行機など知る由もなかった。まして、海軍を志願した森川が、なぜ軍艦に乗らず空を飛んでいるのかは、なかなか理解してもらえなかった。
 森川の父親は、霞ヶ浦に立ちこめた春霞に目をくらまされ、揺れる松林の梢をさざ波と勘違いし、着水しようと高度を下げたところが松林とわかり、あわてて上昇し、九死に一生を得たという森川の失敗談を何も言わず聞き入っていたが、「勲君は飛行機の操縦士になるのですか、名誉なことですが、飛行機というものは危なっかしい乗り物だと聞いていますが」と村長から聞いていた母親は、「勲、くれぐれも無茶なことはしてくれるな。身体をいとえよ」と言って、信心している伊喜末八幡宮金比羅様のお守りを手渡した。
「私が大正十四年飛行機乗りに志願した時には、餞別と香典を一緒にくれた時代であった。飛行機乗りにはお嫁にゆくな、今日は花嫁明日は後家、生命保険も断られたものである。幼稚な飛行機時代を乗り越えて二十年間無事に今日あるを得たのは何であったか。私は運のよい男であったと大空に感謝するのみである。」
晩年の森川が原稿用紙十七枚に書き綴った『大空一代 壹等飛行機操縦士 森川勲』の末尾でこう述べている通り、その頃の飛行機は、幼稚で危なっかしい代物であった。
 年が明けると、編隊飛行訓練に重きが置かれるようになった。
霞ヶ浦を無事卒業し、パイロットとして航空隊に配属されると軍艦が戦隊を組んで航行するように、編隊を組んでの訓練に励むようになる。
阿川弘之の『山本五十六』によると、霞ヶ浦航空隊に副長として一年三ヶ月間在職していた山本五十六が再び大使館付武官として、横浜より天洋丸に乗りアメリカに向かって出帆した大正十五年一月二十一日、山本の転勤を惜しんだ航空隊の隊員達が編隊を組んで天洋丸の上空に飛来し、爆撃演習を行って元の副長に別れを告げたとあるが、一人前の海軍航空隊のパイロットとして避けて通れない飛行技術、それが編隊飛行であった。
 編隊飛行は、編隊長機あるいは一番機の飛ぶ通りに、定められた一定の距離を保ちながら目的地まで飛ぶのであるが、編隊を組んでの飛行では、単機で飛んでいる時のように、自分勝手に変針など出来ない。先頭を飛ぶ一番機が右旋回すれば、右後方に位置する二番機は、小さくすばやく右に旋回しなければならず、左後方に位置する三番機は、逆に大きく右に旋回しなければならない。また、一番機が高度や速度を修正すれば、二番機、三番機はそれに合わせて修正の舵を使い、発動機の調整をしなければならない。編隊飛行におけるパイロットは、刻々と変化する飛行状態を読みながら、一番機はもとより前後左右を飛ぶパイロットと呼吸を合わし、定められた正位置を保たなければならない。列機が飛びやすいか、飛びにくいかは、一番機のパイロットの判断と技量が大きく左右した。
さらに飛行機には、新旧、調子の善し悪しがつきものである。その上、パイロットの技量の深浅がある。編隊の機数が多くなればなるほど、一人の些細な高度や速度の修正が、あっという間に編隊を崩してしまう。編隊飛行は、単機で飛ぶのとは異なる飛行機捌きがパイロットに求められた。編隊離水、編隊上昇下降、左右旋回などの編隊飛行訓練には、必ず教員が同乗したのは、空中接触事故を防止するためであった。
森川は、中野教員より三機編隊の一番機を命じられた。二番機は青木、三番機は宮田であった。
森川が編隊飛行の中でもっとも難しい一番機を命じられたのは、操縦技術に優れ、後に続く二番機、三番機の飛行状態を的確に読みとる能力と判断力を兼ね備えていると認められたからであった。
森川、青木、宮田の三人は、ハンザ水上偵察機で三機編隊を組み、無事卒業飛行を終えた。
 大正十五年五月二十九日、森川は第八期飛行練習生同期十四名とともに卒業式を迎えた。
 卒業生の内、佐世保鎮守府所属は、森川、村山、松尾、宮田、山田の五名。呉鎮守府所属は、号長で御賜の銀時計を授かった間瀬ただ一人。横須賀鎮守府所属は、久保田、笹生、小峯、安藤、青木、小松、須佐、岩堀、佐野の九名であった。
海軍の現役士官、下士官兵合わせて約五万人、その中で飛行機操縦士はわずかに百二十人余り(民間の一等飛行機操縦士は十人余り)、森川は難関を乗り越え、その仲間入りを果たしたのである。
霞ヶ浦を卒業する時、九ヶ月の練習生期間中に一人として殉職者を出さなかったのは第八期だけだということで、安藤司令より大変にほめられました」
森川はこう回想しているが、航空隊の司令から、殉職者が出なくて大変ほめられるということ自体、いかに飛行訓練中の事故が多かったかということを如実に物語っていると言えよう。
卒業と同時に二等水兵へと進級した森川は、ジョンベラ姿にペンネットは「霞ヶ浦海軍航空隊」、左腕にトンビのマーク(飛行術掌飛行兵の特技章)を誇らしげに付け、同期生とともに成田の不動さんにお礼参りをした後、将来の夢を胸底に抱きながら勇躍霞ヶ浦を後にした。
この第八期飛行練習生の中から、源田サーカスの二番機として国民の間に広くその名を知られた間瀬平一郎、開戦劈頭二式大艇でハワイ真珠湾を爆撃した笹生庄助、三菱のテストパイロット岩堀庄次郎、航空廠飛行実験部の久保田守、そして航空廠、川西航空機においてテストパイロットを務めた森川勲など、後年、海軍航空隊にその令名を轟かせる名パイロットが数多く輩出された。