ハンザ水上偵察機で、特殊飛行や編隊飛行の訓練が始まる。

 中間練習機教程(中練)に進むと、使用される飛行機も、アブロ水上練習機から実用機であるハンザ水上偵察機に変わり、特殊飛行や編隊飛行の訓練が始まった。
飛行適性検査や初歩練習機教程で使われたアブロ水上練習機は、離着水、水平直線飛行、旋回、上昇、下降など飛行機操縦の基本を習得するための練習機であった。
 初練を終え中練に進んだ練習生は、実用機であるハンザ水上偵察機を使い、機位不良状態からの修正や特殊飛行、編隊飛行などの高等技術を身に付けるのである。
 この中練で使用されるハンザ水上偵察機は、第一次大戦において戦勝国として名を連ねていた日本が、大正十一年にドイツから戦利品として受け取ったハンザ・ブランデンブルグW29水上機をノックダウン(国産化)し、水上偵察機として制式採用したもので、機体は中島飛行機と愛知時計電気で製作され、発動機はフランスのヒスパノスイーザエンジンをライセンス生産した三菱ヒ式水冷発動機が搭載されていた。原機の設計は天才飛行機技師エルンスト・ハインケル、諸元、性能は、木骨羽布張り低翼単葉、双フロート、乗員二名、全幅十三・五七メートル、全長九・三六メートル、全高三メートル、全備重量二・一トン、三菱ヒ式水冷V型十二気筒二百二十馬力発動機一基搭載、プロペラ型式木製二翅、最高速度百六十八・五キロ、航続時間四時間、武装七・七ミリ機銃一挺、三十キロ爆弾四個を懸吊というものであった。
 ハンザ水上偵察機の構造そのものは、木骨羽布張りというオーソドックスなものであったが、箱型断面の機体に大きな面積の低翼単葉という、複葉機全盛の当時としては非常に斬新なスタイルで、操縦性、安定性に優れた水上偵察機であった。量産の進んだ大正十四年七月、海軍に制式採用となり百八十機(愛知時計電気で百五十機、中島飛行機で三十機)が生産され、昭和五年頃まで使用された。森川が卒業飛行に青木、富田の三人で編隊を組んで飛んだのも、このハンザ水上偵察機であった。
 このハンザ水上偵察機を使って行われる特殊飛行は、上昇(ズーム)、降下(ダイブ)、旋回(ターン)、急旋回(スチィープ・ターン)、宙返り(ループ)、失速反転(ストーリング・ターン)、横転(ロール)、急横転(スナップ・ロール)などと、その複合的な組合せであった。
 森川は、特殊飛行の中で比較的やさしいにもかかわらず、もっとも派手で見栄えがするのは、発動機を全開にして操縦桿を徐々に引くと飛行機は機首を上げて背面となり、次ぎに機首を下げて水平飛行に移る宙返りや、宙返りの頂点付近で背面から水平飛行に移る上昇反転だったと回想している。
 冬の霞ヶ浦は、剃刀の刃のように鋭く冷たい筑波おろしが吹きすさぶ。森川ら水上機専修の飛行練習生は、霜柱をざくざくと踏んで湖畔に向かい、寒風に身を震わせながら飛行訓練を重ね、時には湖水に胸まで入って練習機をスベリに押し上げたり、水分や塵芥を取り除くために鹿皮を貼った大きな漏斗を燃料タンクの給油口に差し込み、四斗缶に入ったガソリンを流し込んだ。また作業服に着替えて格納庫で機体や発動機の整備、組立てを手伝い、それらの構造や働きを一つひとつ自分のものとしていった。
 森川は、中野教員とともにアブロ水上練習機に乗り飛行訓練に励むうちに、飛行機はむやみに墜落するものではないと思うようになっていたが、この中間練習機教程での特殊飛行訓練で、飛行機はそう甘い代物ではないと思い知らされた。
 森川は、水平直線飛行から、「一、二、三」とかけ声をかけ、右フットバーを蹴り込んでハンザ水上偵察機を横転させようとしたところ、タイミングがずれて機首を下げながら反転また反転におちいり、そのまま錐もみ(スピン)に入ってしまった。
 幸いにも高度が高かったのと、同乗していた中野教員の機敏な回復操縦で事なきを得ることが出来た。
錐もみから離脱して水平飛行に移っても、さまざまな方向からの荷重(G)の影響で三半規管などの感覚器官に狂いが生じ、方向感覚や傾斜感覚を一時的に失う。飛行機から降りても、血の気の失せた青白い顔を引きつらせ、うつろな目をしている森川に、
「森川、目をカッと見開いて機を立て直さなければならんぞ。しっかりしろ」
パイロットは、地球が回っているのではなく、飛行機が回っているという感覚をつかまなければ、錐もみから離脱出来ない。温厚な中野教員にしては珍しくビンタを飛ばし、
「森川、飛行機に戻れ。」
声を荒げて叱咤し、飛行訓練を開始した。
ここで訓練を止めてしまうと、恐怖心が増幅して、次に飛んだ時、墜落を恐れるあまり萎縮してしまい、横転を自分のものにすることが出来なくなってしまう。練習生が操縦に差し支える怪我をしている、あるいは練習機が破損して飛べなくなっている場合を除き、失敗した練習生を再び大空へと誘い、訓練をしてやらなければならない、というのが中野教員の持論であった。
 森川は、飛行機を飛ばす際に、もっとも注意を払わなければならないものは、「高度」と「速度」である。高度は下降することにより速度に代えることが出来る。失速して錐もみに入っても、操縦桿を前に押し、スロットルを開けば、方向舵で機位を修正することが出来るが、低高度での錐もみは命取りであると肝に銘じた。
中野教員は、森川ら練習生に、「操縦の基本を守り、飛行機の取扱いに習熟すること」、「訓練前の点検は確実にやること」、「だろうは墜落のもと」、「パイロットに失敗は成功のもとという諺は通用しない。失敗した時は墜落が待っている」とか、特に「色気を出すな」ということを繰り返したたき込んだ。
車やオートバイなどの運転に、「三ヶ月、三年が危ない」、板前の世界に、「下手は切らず、上手は切らず」という格言があるように、習い事は上達するにつれ、誰もが知らず知らずの内に慢心してしまう。中野教員は、それを戒めたのであった。
 また、極度の緊張が続く飛行訓練は、思いもかけない事故を引き起こす。
 大空に舞い上がり、操縦桿を握っている間は、わずかな気のゆるみや、ほんの些細な操縦ミスでも墜落に直結するため、練習生の気持ちは張りつめているが、飛行訓練も終わりに近づき、後は着水すれば終わるという安堵感は、心の弛緩を生み出し、思わぬ事故を引き起こす。杉の枝打ちなど高い所に登って作業する山人の間で、「最後の一間(約二メートル)に気をつけろ」という昔から言い伝えられてきた金言と同じであった。
 さらに、離着水の失敗や飛行訓練中の事故だけでなく、発動機始動時の手動圧縮作業中に、突然プロペラが回り出して巻き込まれ、大怪我をする。着水して操縦席からスベリに降りたが、まだ回っているプロペラにふらふらと近づき、頭を打たれて練習生が殉職するなどの事故が、これまで頻繁に起こっていた。
 兵学校出の飛行学生も同様で、大正元年の第一期から第六期飛行学生までの十年間の士官パイロット養成員数は八十六名。その内、大正十五年までに殉職した者(卒業後の事故も含める)は十八名、実に二十一パーセントにも及んでいた。
 教官を務める大西瀧治郎少佐はセンピル航空教育団の講習員であったが、大西と同期の第六期飛行学生十五名の内、三分の一近くの四名が訓練中飛行機事故に遭遇していた。あまりの事故の多さに、砲術、水雷など外の術科学校では、霞ヶ浦航空隊のことを「人類屠殺学校」と呼んでいたほどである。
 山本五十六が副長兼教頭として霞ヶ浦航空隊在職中に起こった飛行練習生の殉職事故の模様を、小説家の阿川弘之が自著『山本五十六』の中で、こう書き記している。
「山本の霞ヶ浦時代にはまた、こんな事もあった。
 ある時、年少の練習生二人の乗った水上機が一機、霞ヶ浦の湖上に不時着水をやった。すぐ救難隊が用意され、特務少尉一名、下士官兵数名が救難艇で現場に急行して、遭難機にロープを取るのに成功し、曳航しながら水上隊へ帰って来る事になったが、季節は真冬で、名物の筑波おろしは寒く、風浪は烈しく、重量の軽い水上機はともすれば水から浮き上がって転覆しそうになる。なかなかの難作業であった。
 救難隊の指揮官以下数人は、それぞれ遭難機の翼やフロートの上に乗り移って、飛行機のくつがえるのを防ぎながら、だましだまし曳航をつづけていたが、そのうち不意に一陣の突風が来て、機はあっという間にひっくりかえり、二名の搭乗員と数名の救難隊員とがそのまま行方不明になってしまった。
隊ではその日から、副長の山本五十六大佐指揮の下に、捜索作業が始められた。捜索隊は朝四時に本部前に整列して、それから日没まで、連日遭難者の遺体を湖上にもとめて歩くのである。
救難隊員の死体の方は二、三日するうちに全部見つかったが、二人の搭乗員練習生だけが、どうしても上がって来ない。山本は、朝四時になると、寒風の中を必ず出て来て黙って捜索隊の出発を見ている。寒さは寒いし、生存の望みはもう無いし、五日目になって甲板士官の三和義勇が、そろそろこの辺で捜索打切りにしてはどうでしょうと申し出てみたが、山本は、何ヶ月かかってもやるといって承知しなかった。
「太平洋のまん中じゃあるまいし、たかが湖の中だ。五日や十日で打切るようで部下が率いて行けるか」
 それで捜索は続行され、やがて日曜日が来た。
 日曜の朝、殉職した練習生達と同期の練習生一同から、きょうは休みだから、他分隊の者の援助を借りず、自分達の手だけで思う存分の捜索をしてみたいと思うから、それを許してくれという申出があった。
 許可になり、彼らが捜索に出発する時、山本は例になく口をひらき、
「きょうは必ず見つかるから、一生懸命やって、お前達の戦友の遺骸をお前達の手で収容してやれ」
 という訓辞を与えた。山本の言葉の調子は甚だ断定的であったという。すると、午前十時ごろ、捜索隊から、
「二名共発見、捜索終り」
 という報告が本部に届いて来た。」(阿川弘之山本五十六・上』新潮文庫より抜粋)
この殉職した二人の練習生は、山本五十六の在職期間からすれば、第五期飛行練習生が空中分解による墜落事故で殉職した高井練習生ただ一人なので、第六期か、あるいは森川より一期上の七期飛行練習生のことかと思われる。