森川、アブロ水上練習機で単独飛行、これで練習生は15人に絞り込まれる。

一日二回の搭乗、飛行時間は十五分から二十分、延べ時間にして十五時間余りが過ぎた。三ヶ月間の初歩練習機教程の仕上げは、単独飛行であった。
 技量未熟として単独飛行を許されない場合、飛行機操縦の適性に欠けると烙印を押され、練習生は容赦なく「首切り(罷免)」される。失敗したからもう一度ということは、飛行練習生には許されなかった。単独飛行の出来如何でも同様であった。
 単独飛行は、初練で学んだ四つの基本的な操縦方法(水平直線飛行、旋回、上昇、下降)と離着水を、いかに自分のものとしているかをみる試験であった。
 中野教員は、単独飛行が近づいた森川に、離水と空中での安定はまずまずであるが、旋回の時に高度が落ちている。頭の中に描いている一定のピッチ姿勢を保ちながら、水平線を描くように旋回しなければならない。また着水の際の眼高十五メートルの引起しと、最後の二メートルの引起し(フレア)に気を付け、機首を上げすぎないようにという注意を与えた。
水上機降着装置として空気抵抗の大きいフロートを腹に抱えている。フロートの先端は、機首より前に突き出ている。これは転覆防止のために、主翼の揚力中心点とフロートの浮力中心点とを整合させているからである。そのため練習生は、フロートの先端を湖面に突っかけるのではないかという恐怖から、どうしても無意識の内に機首を上げ気味にして着水しようとする。水上機、陸上機に限らず、訓練中の飛行機事故の三分の二が離着時に関するものであった。
パイロットは、ベテランも初心者もひとたび大空に飛び立てば、陸上機なら着陸、水上機ならどのように着水しようかと無意識の内に考えています。パイロットにとってもっとも危険でありながら絶対に避けて通れないものが着陸や着水です」
森川がこのように語っている通り、地上と決別してひとたび大空に舞い上がれば、必ず着水か着陸しなければならない。初歩練習教程においては、離着操作に重点が置かれていた。まして、教員が同乗しない単独飛行の適不適は、離着がいかにうまく出来るか否かにかかっていた。
 いくら飛行中の操縦が達者でも、水上機の場合、離着水に失敗すれば、練習機は湖水に突っ込み、機体は破損、練習生は大怪我、悪ければ死亡事故につながり、高価で貴重な練習機とかけがえのない人材を一挙に失ってしまうからである。
 およそ技能の習得には、己の不器用さは、外の者が一回ならば己は十回という具合に錬磨を重ねることにより、その技能に磨きをかけることが出来る。生まれもった天分はもとより、日々の鍛錬、稽古が絶対に必要である。しかし、飛行機の操縦はそんな具合にいかない。高価で貴重な舶来の飛行機、燃料、潤滑油を使い、練習生は代わる代わる寸刻を惜しんで飛ぶのである。うまく出来ないからといって、特定の練習生が飛行機を独占して上達するまで飛ぶなどということは許されなかった。
 練習生に、大器晩成という言葉は認められない。同期生の誰よりも、一日も早く飛行機の操縦技術をマスターしなければならなかった。
 これは、突き詰めていけば、経費の問題であった。
 海軍は飛行機の操縦技術を飛行練習生や飛行学生に習得させるために、莫大な労力と経費をかけている。そこには、予算の枠組みがある。規定の時間内に定められた操縦技術に達しない者は、飛行機操縦の適性に欠けるとして、容赦なくふるいにかけなければならない。富める国アメリカと異なり、貧しい国日本において、パイロットが選び抜かれた少数精鋭主義となったのは、このためであった。
 森川は、飛行場の格納庫の外壁に取り付けられているラッタルを上り下りして離着水時の高度判定の勘を養い、外出日ともなれば土浦駅から汽車に乗り、車外の風景の動きから速度の感覚をつかもうとした。
単独飛行の日、霞ヶ浦の空は抜けるように蒼く澄みわたり、対岸の沖宿から吹く穏やかな秋風が森川の頬を撫でた。
 離着水には絶好の北東の風、風速三メートル、湖面には縮緬皺のようなさざ波が立っていた。
 整備の機関兵が六十キロの砂袋を後部教員席に縛り付け、アブロ水上練習機の尾部に小さな赤い吹き流しを結びつけた。
麻の砂袋は、教員が同乗しないことによる飛行機の重量バランスを狂わさないためのものであった。また赤い吹き流しは、飛行訓練に励んでいる外の機に対して、「今日は初めての単独飛行です。技量未熟ですのでご注意願います」という注意信号であり、森川勲という雛鳥の羽ばたきの証であった。
 森川は、スベリにたたずむ分隊長の小田俊彦大尉、分隊士の高橋東伍特務少尉に向かって敬礼をし、
「森川練習生、カの八号で単独飛行に出発します」
 声を張り上げて申告すると、アブロ水上練習機に乗り込んだ。
 いざという時、後席から救いの手をさしのべてくれる教員は、今日は乗っていない。一人で空を飛ぶ、心が躍った反面、つたい歩きが出来るようになった幼子が親から引く手を離されたような心細さが、森川の胸中に浮かんでは消えた。
 森川は、アブロ水上練習機を離水湖面に導き、スベリに翻る吹き流しと湖面のさざ波の立ち具合から風向きを確認した。
吹き流しは、三十度の角度でゆるやかにたなびいていた。
(北東の風三メートルは変わってはいない。よし)
操縦席から身を乗り出し、上下左右を慎重に見回した森川が、親指と人差し指でスロットルレバーとペトロールレバーを調節し、発動機の回転を上げて機首を風上に正向させると、アブロ水上練習機はル・ローン空冷回転式発動機の咆哮とともに湖水を蹴立てて水上滑走を始めた。
 速度が上がるにつれて周りの景色が後に消し飛び、ドッ、ドッ、ドド、ドドと機体を揺さぶる上下運動が大きくなった。
 アブロ水上練習機に搭載されているル・ローン空冷回転式発動機は、クランクケースとプロペラが一緒に回転する構造のため慣性トルク(ねじりモーメント)が大きく、水上滑走時や離水直後には、機体を左に傾けようとする特性があった。
 森川は、湖岸の松の大木を目標に、フットバーと操縦桿であて舵をあて、斜走に注意しながら離水速度である三十三ノットに達した瞬間、操縦桿を静かに引いた。
 バァーン、バァーンと、フロートが二度三度湖面を重く叩いた後、アブロ水上練習機は水飛沫をまき散らしながら空に浮かんだ。
最初の難関である第一旋回を上昇しながら気速四十五ノットで回り、続いて第二旋回を終えた森川が高度計に視線を走らせると、定められている高度三百メートルを下回っていた。
補助翼と方向舵を操作し、機体を傾けて旋回に入ると、翼の生み出す揚力が減少するため、どうしても気速と高度は下がってしまう。さらに、練習生は恐怖心から機体の傾き(バンク)を浅くとってしまい、遠心力を増大させ旋回半径は大きくなる。森川は高度を修正し、第三旋回に向かうために水平直線飛行に入った。
千変万化の大空は、横風が渦巻き、上昇、下降の気流が吹き抜けている。飛行機を真っ直ぐ飛ばしているつもりでも、飛行機の姿勢は風と気流の影響を受けて絶えずに変化している。森川ら練習生は、水平、直線を維持しようとするあまり不必要な操作をして、逆に飛行機をふらつかせてしまう。大空という三次元の世界を飛ぶ飛行機をふらつかせると、水平直線飛行どころか、高度と速度、針路が変わってしまう。飛行機操縦の基本中の基本操作である水平直線飛行は、素人目には簡単に見えるが、なかなか「真っ直ぐに」飛ぶことは出来ない。森川が針路の修正に気をとられていると、いつの間にかアブロ水上練習機は右に滑っていた。
森川は、機位の安定と高度の修正に注意を払いながら第三旋回を回り終え、第四旋回に向かった。
 第四旋回をうまくこなさなければ、着水前の直線滑空飛行に無理な姿勢で入らなければならない。
 単独飛行の場合、練習生の胸中は、ミスなく飛行を終え、早く着水したいという思いから、無意識の内に、目が、気持ちが湖面に向かってしまう。すると、機体は視線を走らせている方向に傾いてしまい、針路がずれているのに気がつき、あわてて修正しようとすると、今度は高度と気速が落ちてしまう。
(飛行機も舟と同じだ。目を向けた方へ進んで行く・・・) 
 森川は、第四旋回に神経を集中した。
(落ち着け・・・ゆっくりと、ゆっくりと)
 ゆるやかに降下しながら第四旋回を回り終えた森川は、こう念じながらアブロ水上練習機を着水湖面に導くと、速度を上昇させることなく高度を下げるために、操縦桿をゆるめ、発動機を絞った。
気速が落ち、水平飛行が出来なくなったアブロ水上練習機は、霞ヶ浦の湖面に向かってグライド(滑降)を始めた。
アブロ水上練習機の場合、着水は眼高十五メートルで発動機を全閉、失速に注意を払いながら滑空に合わせて操縦桿を引き、二メートルで操縦桿を一杯に引き起こし、湖水をなめるように着水するのが最良とされていた。
 この眼高十五メートルの判断が難しかった。
 高度の目測を誤り、通常より高い位置で操縦桿を引き、発動機を全閉にしたため機首上げ効果(エンジンのピッチアップ・エフェクト)が薄れ、フロートの底が接水する前に失速して湖面に機首から突っ込む「高起こし」や、着水速度が速すぎたり、引起しが大きすぎた場合、接水する前に再び浮かび上がり失速して湖面に落着する。あるいは着水地点を大幅に飛び越す「バルーニング」を招いてしまう。逆に、引起しが足りなかったり、発動機を絞るタイミングがずれると、フロートを湖面に突っかけ、もんどり打って湖面に突っ込んでしまうが、これらはあくまで着水の原理原則であった。
 風が吹きつのり、湖面が荒れている場合など、パイロットの臨機応変な判断が要求される。離着に関する限り、水上機は飛行場に離着陸する陸上機に比べて高度な技術を要求された。
(ゆっくり、ゆっくり、よし、高度十五メートル)
 森川は、自分にこう言い聞かせながら発動機のスイッチを切った。
 発動機の爆音が消えプロペラが止まったアブロ水上練習機は、シュルシュルという風を切る音とともに高度を下げて行った。
 森川が、沈みに合わせながら操縦桿を引き、眼高二メートルで一杯に引き起こすと、アブロ水上練習機はふっと機首を上げ、フロートの後端からなめるように湖面に着水し、水上滑走に移った。
スベリに戻った森川は、
「カの八号、森川練習生、単独飛行終わりました」
顔を上気させながら申告した。
森川は三ヶ月間の初歩練習機教程を無事終えた。その間、第八期飛行練習生として入隊した二十一名中六名が操縦適性に欠けるとして罷免され、偵察や電信に回された。一緒に入隊したほぼ三人に一人の割合であった。
分隊長から偵察や電信に回る者を発表すると言われた時には、もしかしたら自分の名前を呼ばれるのではないかと思い、不安で一杯でした。名前を呼ばれなかったので胸をなで下ろしましたが、操縦適性に欠けると判断されて偵察や電信に回された六人は、実に気の毒でした」
森川は、その時の模様をこう述懐している。
 操縦適性に欠けると罷免された六人は、ともに難関をくぐり抜け、入隊以来お互い競いながら飛行訓練に励んだ仲間であり、ライバルであった。初歩練習機教程を終えて中間練習機教程に進む十五人は、手荷物をまとめて悄然と兵舎を後にする六人を、声もなく見送った。
一次、二次試験(飛行適性検査)の難関を突破し、飛行練習生として霞ヶ浦航空隊に入隊しても、パイロットの証であるトンビのマークを左腕に付けるまで、操縦適性という難関を何度もくぐり抜けなくてはならない。
 悄然と兵舎を後にした六人は、努力を怠ったわけではない。むしろ、本人の努力ではどうにもならない、パイロットとしての「資質」が、残った十五人に比べて、わずかに劣っていたに過ぎなかった。
 いったん大空に舞い上がれば、己の技量と資質がすべてさらけ出される。他人事ではない、明日は我が身であった。