イギリス製アブロ504L型水上練習機を使った飛行訓練がはじまった。

航空隊の一日は、夏は五時半、冬は六時の起床ラッパで始まる。
 ハンモックから飛び起きた練習生は、当直教員の点呼を受けると霞ヶ浦の湖畔にある格納庫に隊伍を組んで駆け足で向かい、アブロ水上練習機をポンドに並べる。それが終わりしだい兵舎に戻り、麦飯に味噌汁、漬物、牛乳の朝食をかき込む。午前八時から水上機分隊分隊長小田俊彦大尉の講話、分隊士の高橋東伍特務少尉からその日の訓練内容の説明の後、教員との同乗飛行訓練が行われる。練習生は作業や訓練中、屋内外を問わずこぶしを腰にあてて駆け足、二人以上だと一人が号令をかける。歩くことは許されなかった。
 飛行訓練は、まず最初に、後席に同乗する教員から基本的な操縦方法(水平直線飛行、旋回、上昇、下降)を学ぶことから始まる。使用される飛行機は、飛行適性検査に使われたイギリス製アブロ504L型水上練習機であった。
 さらに、これら二回の基本的な飛行訓練の合間に、離着水訓練を二、三回行う。午後からは、機体や発動機の構造、各計器の取扱いなどの座学か通信などの温習、雨になれば飛行訓練は取りやめ、終日座学となった。
 陸上機は水上機と違い、天候の具合などにより午前中が座学ならば、午後からは飛行訓練という具合に、随時変わっていた。
 晴れて飛行練習生になったからといっても、気は抜けなかった。
 航空隊司令の安藤少将は入隊の訓示で、「航空隊に入隊したからといって安堵してはいけない。この中から卒業までに罷免される者が何人か出るはずだ」と言った通り、教程中に何度も飛行適性検査があり、操縦不適と判断されれば、即座に偵察や電信に回され、パイロットへの道は一生閉ざされる。それ以上に、飛行機の操縦を志願した練習生にとって、偵察や電信に回されるということは、何ものにも代え難い屈辱であった。
 森川を初めて大空に誘ったイギリス製アブロ504L型水上練習機は、複葉木骨羽布張り双フロート(浮舟)、乗員二名、全幅十・九七三メートル、全長八・八一三メートル、全備重量八百四十九キロ、ル・ローン空冷回転式九気筒百十馬力発動機一基搭載、プロペラ型式木製四翅、離水速度六十一キロ、巡航速度八十三・三キロ、最高速度百三十八・九キロ、上昇限度四千三百四十メートル、航続時間三時間という諸元、性能であった。
ライト兄弟に後れること四年余り後の一九〇八年、動力飛行機を自作し、大空に飛ばした最初のイギリス人パイロット、A・V・ローにちなんで「アブロ」と名付けられたこの504練習機には、「K」と「L」の二つのタイプがあり、K型は降着装置として車輪の付いた陸上機、L型はフロートの付いた水上機であった。一九一三年に製作が開始されたイギリス初の練習機であるアブロ504は欧米各国でライセンス生産されるなど、当時としては破格の一万機以上も生産された大ベストセラーの練習機であった。
 日本海軍も初級練習機として水上機型504Lを十機、陸上機型504Kを六十八機、イギリスより輸入し制式採用した。また、大正十一年から十三年にかけて中島飛行機で二百五十機、愛知時計電気において三十機の合計二百八十機のアブロ504K型及びL型練習機がライセンス生産された。昭和初年に第一線を退いた後は民間に払い下げられ、昭和十三年頃まで海洋飛行団や飛行機学校の練習機として使用された長命機であった。
 森川によれば、アブロ練習機のル・ローン空冷回転式発動機は、クランクシャフトがエンジンベッドに固定されており、シリンダーがプロペラとともに回転して冷却するという古典的な構造のグノーム・ロータリーエンジンで、最高速度七十ノット、着水速度三十三ノット、発動機の爆音を聞きながらスロットルレバーとペトロールレバーでガソリンと空気の流入量を変えることにより回転数を調整し、加減速するようになっていた。このため最微速回転は高く、着水時には瞬間的に発動機を止めたり動かしたりすることで飛行機を降下させるという煩雑な操作を必要とした。またアブロ練習機は機体を後に長く延ばして安定性をよくしていたが、風に弱く、離着時に横風を受けると簡単に逆立ちをしたため、陸上機型では転覆防止用の橇を車輪の間に装着していた。陸上型は水上型と異なり、教員が前席、練習生が後席となっていたとのことである。
 このアブロ504練習機は、揺籃期の海軍航空隊にとって、なくてはならない飛行機であった。
 海軍は、大正八年七月に陸軍がフランスからフォール大佐以下六十三名からなる航空教育団を招聘し、ニューポール、スパッド戦闘機、サルムソン偵察機、ファルマン、プレゲー爆撃機などを使い、操縦、射撃、爆撃、偵察及び観測、気球、機体製作、発動機製作、航空機検査など八部門にわたって講習会を催したのに倣い、大正十年三月、飛行機搭乗員の技術向上を図るために、イギリスからセンピル航空教育団を招聘した。その際、使用する飛行機として持ち込まれたのが、アブロ504L型及びK型練習機であった。
 ちなみに、センピル航空教育団がイギリスから持ち込んだ飛行機は次の通りである。

 グロスター・スパローホーク艦上戦闘機
 ロイヤル・エアクラフトSE5A戦闘機
 マーチンサイドF4バザード戦闘機
 ソッピース・クックーTMK2雷撃機
 ブラックバーンスイフト艦上雷爆撃機
 デハビランドDH9偵察爆撃機
 パーナル・パンサー艦上偵察機
 スーパーマリン・チャンネル飛行艇
 スーパーマリン・シール水陸両用飛行艇
 ビッカース・バイキング水陸両用飛行艇
 ショート・F5哨戒飛行艇
 アブロ504K型・L型練習機

 これらイギリス製の最新鋭機を使用して、操縦、射撃、写真偵察、爆撃、雷撃、気象研究、飛行船、気球などの講習が霞ヶ浦航空隊(本部)と横須賀航空隊(支部)とで約一年間にわたって行われ、海軍士官六十八名、下士官兵四百名余りが、この講習会を受講した。
 航空教育団の団長であるセンピル予備航空大佐は三十一歳、第一次大戦ガリポリ戦の殊勲により二十八歳の若さで大佐となったスコットランド出身の貴族であった。副長メーヤス中佐、飛行部長兼操縦主任ファウラー少佐、兵器部長エルドリッジ少佐、整備主任アトキンス少佐、飛行艇主任ブラックレー少佐、水上機主任ブライアン大尉、落下傘主任オードリー少佐など総勢三十名であった。
 当時、飛行学生の学生長であった菊池朝三中尉は、霞ヶ浦航空隊で行われた講習の模様を、次のように書き記している。
「(センピル)大佐は当時英国の統治国であった印度の航空総督就任の内示があったのを断って日本の要望に応じたとのことで、団長になる条件に自分の眼鏡にかなった士官下士官を要望し、総勢三十名、特別の外人宿舎に居を構えたが、団長自身は夫人とともに土浦郊外に一家を構え、文字通り日本国に溶け込んで教育に当たった。
 副長、飛行科長、兵器科長、整備科長、飛行艇主任、艦上機主任、練習機主任、航空衛生主任、落下傘主任と各部内の責任士官を定め、教育の実施は峻厳の一言に尽きた。その真髄は単なる知識の注入ではなく、軍紀厳正の精神を鼓舞し、飛行機乗りは愛機と運命をともにする心構えをたたき込み、飛行作業後の飛行機、機材の清掃にも非常に喧しく、少しも容赦なく叱責した。これが後日我が海軍航空の大をなす礎となった。講習に使った飛行機、機材は全部英国から持ってきたもので、教育には勿論英語が使われた。」(海空会編『海鷲の航跡』・「海軍航空草創時代ーーわが心に映えるものーー」より抜粋)
 団長のセンピル大佐は、一年間にわたる講習を終えてイギリスに帰国する際、「日本海軍の士官はボンクラだが、下士官兵は世界一優秀だ」という、日本海軍の組織、運用上の一面をつく、辛辣で意味深い言葉を残して日本を後にしたが、センピル航空教育団は、飛行技術や運用ばかりでなく、その後の海軍航空隊のあり方に、大きな影響を及ぼした。
 その一つが、落下傘(パラシュート)降下であった。
日本は、小さな島国で資源は乏しく国民は貧しい。日清、日露の戦争には勝ったが、欧米並みに軍艦や飛行機を潤沢に持つには国家の財政状況が許さない。いきおい、「人」よりも「物」を大切にしなければならなかった。特に海軍は、陛下から預かった大切な軍艦が沈む時、艦長は責任をとって船と運命をともにするという慣習があった。そのためセンピル大佐の、「飛行機乗りは愛機と運命をともにする心構え」は、海軍航空隊パイロットに熱狂的な共感をもって受け入れられ、貧しい国民の血税で購った高価な飛行機からパイロットだけがぬけぬけと脱出し、落下傘降下をして助かるなどということは、到底許容し難いという風潮を醸し出した。その結果、あたら有為の人材を数多く失う原因の一つとなったのである。
「私が飛行練習生だった頃は、落下傘は積んでいませんでした。故障した飛行機から落下傘で脱出するなどということは考えたこともありませんでした」
森川は、落下傘降下について、このように述べている。
森川が霞ヶ浦の空で初歩練習機教程に励んでいた九月二十二日、代々木練兵場や江戸川上空を舞台に、所沢、立川、下志津原など陸軍航空隊の荒鷲百六十機余りが東西に分かれ、日本初の航空大演習を挙行したという一報が霞ヶ浦航空隊を駆けめぐり、「また陸軍に先を越された」と、教官や教員のみならず森川ら練習生も歯がみして悔しがった。
明治、大正時代の海軍航空は、常に陸軍航空の後塵を拝していたと言っても過言ではなかった。
明治四十三年十二月、日本初の公式飛行に成功したのは、派遣先のドイツより持ち帰ったハンス・グラーデ単葉機を操縦の日野熊蔵陸軍歩兵大尉と、フランスより持ち帰ったアンリ・ファルマン複葉機を操縦の徳川好敏陸軍工兵大尉であった。また陸軍が大正四年十二月、「臨時軍用気球研究会」を解散して所沢に陸軍航空隊を設立すると、海軍は翌五年四月に、「海軍航空術研究会」を解散し、横須賀追浜の地に横須賀海軍航空隊を開隊したという具合に、一歩後れをとっていたという感は否めない。
森川が霞ヶ浦航空隊に入隊して二ヶ月が瞬く間に過ぎた。
ある日、森川は練習生の一人が、「飛行高度が増すにつれて耳が詰まったようになり、痛くなって困る」とこぼしているのを耳にした。
 森川は、唾をぐっと飲み込めば、耳の痛みは治まるとアドバイスを与えた。
水泳に堪能で、夏ともなれば海に潜ってはサザエやアワビなどを採っていた小豆島生まれの森川は、なぜ深く潜れば潜るほど耳が痛くなるのかという理屈はわからなかったが、鼻をつまんでフンとやるか、唾をゴクリと飲み込めば、耳の痛みは治まるということを、知らず知らずの内に身に付けていた。
しばらくすると、座学の時間に「バルサルバ法」という息抜きの仕方を習った。
 急激に気圧が変化する飛行訓練では、鼓膜の内外の圧力差による激痛を伴うばかりか、鼓膜が破れる場合がある。それを防ぐためには、口と鼻を閉じて強く息をするか、唾を強く飲み込まなければならないというものであり、これは十八世紀の解剖学者アントニオ・バルサルバが発見したものであった。