霞ヶ浦航空隊の副長兼教頭は、山本五十六大佐だった。

 
 大正十四年九月一日、難関を突破した森川は、第八期飛行練習生合格者二十名とともに霞ヶ浦海軍航空隊に入隊、練習分隊編入された。
 航空隊の司令は、安藤昌喬少将(海兵二十八期)。後年、航空本部長として海軍航空廠創設に尽力し、海軍航空隊の育成に大きな足跡を残した安藤司令は、四月に着任すると少将ながら飛行機の操縦を習い、単独飛行が出来るまでになっていた。
 副長兼教頭は、海軍航空育ての親であり、空母機動部隊をもってハワイ真珠湾アメリカ太平洋艦隊を撃滅した山本五十六大佐(海兵三十二期、連合艦隊司令長官・大将)であった。
 また、特攻隊の生みの親と呼ばれ、終戦直後、「特攻隊ノ英霊ニ曰ス。善ク戦ヒタリ。深謝ス」という遺書を残して割腹自殺をした大西瀧治郎少佐(海兵四十期、中将)、硫黄島において海軍守備隊将兵六千余とともに戦い、「ルーズベルトニ与ウル書」を書いて自決した市丸利之助大尉(少将)がなど教官を務めていた。
 山本五十六は、日本海海戦において装甲巡洋艦「日進」に海軍少尉候補生として乗組み、左手指部及び右下腿後部を負傷。明治四十四年十二月一日、海軍砲術学校高等科学生教程卒業という、生え抜きの鉄砲屋でありながら、二年間のアメリカ留学や九ヶ月に及ぶ欧米視察を通じ、世界の産業の趨勢は石炭から石油へ、海軍においては大艦巨砲、艦隊決戦の時代から、近い将来飛行機の時代がやってくるという認識を深め、森川が飛行練習生として入隊するちょうど一年前の大正十三年九月一日付けで霞ヶ浦航空隊附となり、それから三ヶ月後の十二月一日、副長兼教頭に補されたのであった。
山本五十六が副長兼教頭に補された頃の霞ヶ浦航空隊は、「飛行気乗り」という言葉に象徴されるように、一種の無頼派的雰囲気が漂い、傲慢、粗暴な振る舞いが後を絶たず、遅刻、脱営者は日常茶飯事となっていた。山本は、これを一掃すべく隊内に泊まり込み、隊内の軍規の維持、風紀の粛正に取りかかった。さらに、指揮官率先垂範とばかりに、飛行機に関する猛勉強を開始し、司令の安藤少将ともども操縦を習い、単独飛行が出来るまでになっていた。これにより航空隊に流れていた怠惰な雰囲気は払拭され、精神の弛緩は無用の事故を引き起こすとばかりに、飛行訓練は猛烈を極めていた。
 森川は、大正十四年九月一日入隊、翌十五年五月二十九日卒業。山本五十六霞ヶ浦航空隊在任期間は大正十三年九月一日から翌十四年十一月三十日までである。森川は、初歩練習機教程の三ヶ月という短い期間であったが、後に連合艦隊司令長官となる山本五十六の風貌、謦咳に接していた。森川が山本五十六について、「安藤司令や山本大将は飛行機の操縦が出来ました」と述懐しているのは、このためである。
 入隊式の後、二十一名の練習生は水上機専修者と陸上機専修者に分けられ、真新しい飛行服と保革油の匂い立つ飛行靴、手袋、飛行帽、ゴーグルなどが支給された。
八期飛行練習生の号長(期長)は、森川より三歳年上で愛知県人の間瀬平一郎であった。
 後年、「空の英雄」、「海鷲三羽ガラス」と世に謳われる間瀬は、高等小学校卒業後、欧州航路の商船乗組員として三年間勤務した後、海軍を志願。呉海兵団を卒団後、巡洋艦「鬼怒」に機関兵として乗組む。大正十三年十二月、潜水学校首席卒業、潜水艦「ロ一五」乗組み中に飛行練習生に志願するという、練習生の中でもっとも兵隊歴の長い、海軍の酸いも甘いもかみ分けた一等機関兵であった。
 森川は、飛行適性検査と同じく希望通り水上機専修者となった。
 続いて受持ち教員が発表になった。教員一人につき練習生が二人か三人のマンツーマンでの教育であった。森川は、青木、宮田練習生とともに中野政一三等兵曹の受持ちとなった。
 中野教員は、自分が受け持つことになった森川ら三人の練習生に向かって、
「操縦の基本に忠実に、大空では絶対にごまかしはきかない。飛行訓練においては最後まで最善を尽くし、絶対にあきらめないこと、貴様らわかるな」
 穏やかな口調で告げ、
「そう硬くなるな。ところで三人の中で剣道や書をたしなむ者がいるか」
自分の発する言葉を一言一句聞き漏らさないように、目を見据えて聞き入っている森川ら三人の練習生の気持ちをほぐすかのように聞いてきた。
「剣道は海兵団で習いました。書道は好きであります」
 森川は思いがけない質問にとまどいながら答えた。
 青木、宮田も同じであった。
「操縦桿を握りしめるなよ。手や肩の力を抜け、飛行機の操縦がうまくなりたかったら、身体の力を抜け、それが上達のコツだ」
 中野教員は、笑みを浮かべながら言った。
操縦桿は、剣道の竹刀や書道における筆と同じ、肩の力を抜き、手の内は柔らかく、竹刀の切っ先三寸が面に当たる、穂先を紙に下ろすその一瞬、絞り込むように手の内を絞めなければならない。空に舞い上がると、緊張のあまり無意識の内に身体に力が入ってしまうが、余計な力が入っていれば、とっさの時、俊敏に対応することが出来ない。箸で煮豆をつかみ、口に運ぶ時、親指はこう動かして、人差し指はこう動かすといちいち考えているか、飛行機の操縦もそれと同じである。パイロットはどんな時でも、自分の手足のごとく飛行機を操れるようにならなければならないというのが、中野教員の持論であった。
「中野政一教員の指導よろしきをもって無事に操練を卒業することが出来ました。中野教員は私の飛行適性検査に同乗した人で、徳島県人ということもありましたので、何かと目をかけてくれました」
 森川は中野教員を回想してこう語っている。
その頃、霞ヶ浦の教官や教員は、センピル大佐譲りの、飛行機乗りは愛機と運命をともにする心構えの豪放磊落タイプ、もしくは己の勘を頼りの職人タイプが多かったが、幸いにも中野教員は、そのどちらにも属さない温順な性格で、練習生一人ひとりの技量を的確に把握し、その能力に合わせて指導するというタイプの教員であった。
一人前のパイロットになるためには、航空力学にもとづく飛行原理を習得するという科学的な側面と、操縦感覚を身体で会得するという感性的な側面を併せ持たなければならない。教員や教官が森川ら練習生に告げたように、飛行機操縦の基本動作は、操縦桿、フットバー、スロットルレバーの三操作である。右のフットバーを踏み込むと機首は右に向く。操縦桿を右に倒すと機体は右に傾く。右に旋回するには右フットバーを踏み込むと同時に操縦桿を右に倒さなければならない。操縦桿を引くと機首は上がり、押すと機首を下げる。スロットルレバーを開けば速度は増し、閉じれば速度は落ちる。これらは科学的な飛行原理にもとづいている。その反面、操縦桿の引き具合、倒し加減、フットバーの踏み加減、スロットルレバーの開閉などは、パイロットの感覚ーー料理でいうところの「塩梅(あんばい)」が大きなウエイトを占めていた。
 どの世界でも、技術の習得は、まず真似ることから始まる。練習生は受持ち教員の一挙手一投足に注目し、その発する言葉や身振り手振りを、頭に、体にたたき込まなければならない。すると、飛び方や飛行機に対する考え方、さらには仕草や癖まで知らず知らずの内に真似るようになる。中野のような温順な性格で、練習生一人ひとりの技量を的確に把握し、その能力に合わせて指導するという教員に操縦のいろはを教わったことは、その後の森川のパイロットとしての生き方に大きな影響を与えた。
 初歩練習機教程(初練)は三ヶ月、主として飛行機操縦の基本を学ぶ。周囲三十八里、ちょうど森川の故郷小豆島がすっぽり入る霞ヶ浦の広大な湖水を舞台に水上機専修者の飛行訓練が始まった。