霞ヶ浦海軍航空隊第八期飛行練習生、通称「操練」となる。

 大正十四年七月五日、森川は、航空隊名物の桜並木に生息する蝉のけたたましい鳴き声を聞きながら、大きな檜の一枚板に草書で「霞ヶ浦海軍航空隊」と墨痕凛々大書された看板のかかる隊門をくぐり、白ペンキ塗り木造二階建ての航空隊本部に向かい、仮入隊の手続きをとった。
森川の頭上を、複葉の練習機が耳をつんざく発動機の爆音をまき散らしながら、熊蜂のように飛び交っていた。
 せっかくあこがれの霞ヶ浦航空隊に仮入隊しても、身体検査で落とされては、泣くに泣けない。森川は体調を整えることに気を配った。
 二次試験の身体検査は、「身体強健デ特ニ呼吸器、循環器系統及ビ神経系統ノ諸器官ニ異常ガナク、視力一・〇以上、識力、聴力に優レ、将来飛行機搭乗員トシテソノ目的ヲ遂行シ得ル見込ミノアル者ヲ選抜スルコト」を目的とした、視力、識力、聴力、握力、肺活量、呼吸停止力、走力、持久力などの検査であり、それまで森川が目にしたことのないさまざまな検査機器を使って入念に行われた。また、目隠しをして歩かせたり、回転する椅子に座らせてぐるぐる回してから立たせるという平衡感覚の検査が念入りに行われた。
 森川は、その頃の成人男子としては大柄な、身長五尺八寸、体重十八貫五百、幼い頃より祖父の楫子として櫓を漕いで鍛えた身体は頑健そのものであった。特に肺活量に優れ、呼吸停止一分半、左右の握力五十五キロ、視力は二・〇を誇っていた。
 森川は、厳格な身体検査に無事合格した。残る難関は飛行適性検査であった。
まず練習生予定者は、陸上機と水上機に分けられる。森川は、希望通り水上機で飛行適性検査を受けることになった。
森川が水上機を選んだ理由の一つとして、瀬戸内海に浮かぶ小豆島に生まれ、幼い頃より海に親しんでいたことと、小豆島出身の航空隊パイロット空林永治が郷土訪問飛行の際、水上飛行機(下駄ばき飛行機)を波静かな内海湾に着水させ、島民から歓呼の声で迎えられながら砂浜に降り立った姿を遠くから垣間見ていたからである。
 最近では履く人をほとんど見かけなくなったが、一昔前までの日本人にとって下駄は、生活に深く密着した、なくてはならない履物であった。水上機降着装置として平行に取り付けられた二つのフロートが、何となく下駄を履いた姿を連想させることから、誰言うとなく「下駄ばき」、あるいは「下駄ばき飛行機」と親近感を込めて呼ばれ、四面を海に囲まれている日本海軍には、無くてはならない機種であった。
 身体検査に合格した水上機練習生予定者は、霞ヶ浦湖畔のハンガー(格納庫)に集合を命じられた。
潤滑油と鼻を突くガソリンの刺激臭の漂う格納庫に鎮座する十数機のアブロ水上練習機は、どの機も発動機はいうに及ばす機体の金属部分は顔が写るまで磨かれ、木部にはワックスが、操縦索やリンク、ヒンジなどにはグリスが丁重に塗り込まれていた。特に飛行機のシンボルであるプロペラは、木製ながら鏡のように磨きあげられていた。
 試験の監督官である教官や教員は、アブロ水上練習機の操縦席に森川ら水上機練習生予定者を一人ひとり座らせ、機体と発動機の構造、インスツルメントパネルの速度計、高度計、磁気コンパス、傾斜計、燃料計、回転計、潤滑油計などの各種計器の見方を説明した後、補助翼(エルロン)、昇降舵(エレベーター)を操作する操縦桿(コントロールスティック)、方向舵(ラダー)を操作する足踏棒(フットバー)、発動機の出力を調整するスロットルレバーの三つの操作が飛行機操縦の基本である。主翼端近くの後縁に蝶番(ヒンジ)で取り付けられ、操縦桿とは鋼索(ワイヤー)で連結されている補助翼は、操縦桿を右に傾けると、右の補助翼が上がり、右翼の揚力を減少させる。と同時に左の補助翼は下がり、左翼の揚力を増大させるという具合に、それぞれが反対方向に動くことにより主翼に左右の揚力差を発生させて機体を右に傾ける。尾翼の水平安定板に取り付けられている昇降舵は、機首の上下運動(ピッチ)をつかさどるもので、補助翼と同じく操縦桿と鋼索で連結されている。操縦桿を手前に引くと水平尾翼の昇降舵は上向きとなり風圧で尾部が下がり、機首は上を向く。押すと昇降舵が下向きとなり機首は下を向く。尾翼の垂直安定板に蝶番で取り付けられている方向舵は足踏棒と鋼索で連結されている。右のフットバーを踏み込むと方向舵は右を向き、機首を右に向ける。これら三舵の構造と働きを頭によくたたき込んでおくようにと告げた。
森川にとって、飛行機はもとより、見るもの聞くもの触るものすべてが、初めてのものばかりであった。
仮入隊して一ヶ月が過ぎ、盆休みを終えると、飛行適性検査の日がやってきた。
 水上機の飛行訓練は、湖面の穏やかな早朝に行われる。陸上隊の兵舎に寝起きしていた森川ら水上機志願者は、飛行服姿に身を固めると、まだ夜も明けきらないうちからトラックの荷台に乗せられ、霞ヶ浦の湖畔に向かった。
格納庫前のスベリ(水上飛行機を格納庫から湖面に導くコンクリートの傾斜面)には、双フロートの水上練習機が整然と並び、褐色の翼を休めていた。
トラックから降りた練習生予定者は、隊伍を組んで指揮所に向かい、水上機分隊分隊長小田俊彦大尉の訓辞の後、分隊士の高橋東伍特務少尉から飛行適性検査の一通りの説明を受けた。
 検査員を務める教員が後席に座り、前席に練習生予定者を乗せて飛行適性検査が始まった。
名前を呼ばれた練習生予定者が、練習機の乗って次々と飛び立って行く。森川は、発動機の爆音とともに大空を飛び交う練習機を見ている内に、
(もし墜落したら・・・)
 という不安感で、口の中が酸っぱくなった。
森川を初めて大空に誘ったのは、焦げ茶色のイギリス製アブロ504L型水上練習機であった。
 名前を呼ばれた森川は、防水衣服を身にまとった機関兵に背負われて湖水に浮かぶアブロ水上練習機のフロートに乗り移り、脚支柱の足がかりに右足をかけて前席に這い上がった。
 機関兵に座席バンドと肩バンドを締めてもらい、後席の教員との会話に使われる伝声管(ボイスチューブ)を装着すると、
「何が起こっても操縦桿にしがみつくな」
 教員のくぐもった声が聞こえてきた。
 練習機は、操縦装置が後席と連結されている。これまで飛行練習中に、うろたえた練習生が操縦桿にしがみついて操縦不能となり、あわや墜落かという事故が発生していたため、後席の教員からこのような注意が与えられたが、森川は元気よく返事をするどころではなかった。
 操縦席にバンドで固縛されている上に、発動機の耳をつんざく爆音、目の前を激しく回転するプロペラの振動、頬を叩く凄まじい風圧など、これまで森川が経験したことのないものばかりであったからである。
後年、海軍航空廠飛行実験部、川西航空機において名飛行艇乗りと謳われ、この大正十四年八月の初飛行から昭和二十年八月までの二十年間の間に、三十数機にも及ぶ試作機や国内外の最新鋭機のテストパイロットを務めた森川でも、初飛行はこちこちに緊張していた。
伝声管からの、
「出発する。操縦装置には絶対にさわるな」
という声とともに、プロペラの回転が速くなり、アブロ水上練習機は湖面を滑るように動き出し、離水地点に向かった。
 発動機の爆音が高くなり、頭と背中が操縦席の背もたれに押しつけられるにつれて、回りの景色が後方に飛び去って行くようになった。
 森川の目の前の操縦桿やフットバーが、まるで意志を持っているように小刻みに動いていた。
 やがて足元からつたわってきていた突き上げるような衝撃がふっと消え、霞ヶ浦の青い湖面が見る見る視界の下に押し下げられて行った。
森川を乗せたアブロ水上練習機は軽やかに離水し、霞ヶ浦の空に舞い上がった。
(飛んだ、空を飛んでいる)
 森川が心の中でこう叫びながら座席の縁を握りしめ、下を見回していると、
「操縦桿を軽く持つ、フットバーに足を乗せろ」
 伝声管から教員の声が流れてきた。
森川は、擂り粉木棒のような操縦桿を恐る恐る握り、フットバーに足を置いた。
「操縦桿を握りしめるな。軽るうーく、もっと軽るうーく持つ」
後席の教員から注意が飛んできた。
初めて経験する、大空という上下左右の感覚のない非日常の世界に緊張してしまい、操縦桿を握る手に力が入っていたのである。
「この方向ヨーソロー(宣候)、直線飛行に移る。手を放すから操縦してみろ」
森川は、飛行機が大きくぶれないよう、身体の力を抜き、手と足をなめらかに使うことを心がけたが、
「傾いているぞ」
「頭(機首)が上がっている、地平線をよく見ろ」
 後席の教員から伝声管越しに注意が飛び、しばらくすると、
「手を放せ、操縦桿にしがみつくなよ」
 厳しい口調で命じられた。
 森川が、手を放した瞬間、目の前の操縦桿が大きく右に傾き、群青色に澄みわたった霞ヶ浦の湖面が森川の目の前一杯に広がった。
アブロ水上練習機を着水させポンドに降り立った教員は、険しい顔つきで記録板に鉛筆を走らせていた。
三日間にわたって行われた飛行適性検査の内容は、上昇、下降、水平直線飛行、緩旋回などであった。
最後の難関である、この飛行適性検査に通らなければ、再び常磐に戻らなければならない。
 森川が飛行練習生の一次試験に合格すると、海兵団で同じ教班だった者から、「必ず飛行練習生になってくれ」、「常磐の名誉だ、しっかりやれよ」と激励され、霞ヶ浦航空隊に仮入隊するために常磐を退艦する時には、三等水兵ながら、「手空き総員見送りの位置につけ」と、帽子を振って送り出された森川にとって、それらの期待と激励に応えるためにも、操縦適性不適の烙印を押されて再び常磐に送り返されることは、身を切られるよりもつらかった。
 森川は見事合格、海軍公報に第八期飛行練習生合格者の一人として、森川勲三等水兵(佐世保鎮守府籍)の名前が掲載された。