森川、憧れの霞ヶ浦海軍航空隊へ

常磐での一日は、夏は午前五時半、冬は六時の総員起こしから始まる。釣り床をすばやく括り、甲板に出てデンマーク式体操とスウェーデン式体操をもとにした海軍体操を行う。続いて甲板洗い、寒風吹きすさぶ真冬でも裸足になり作業ズボンの裾をまくり上げ、ソーフと呼ばれる掃除用具を使い甲板を磨きあげる。それが終わると朝食。七時十五分から居住区の清掃。八時、軍艦旗の掲揚。八時四十五分、森川のような砲側伝令員ならば、大砲手入れなどの午前の課業が始まり、十一時四十五分、昼食。午後一時十五分、午後の課業始め。四時十五分、夕食。五時十五分、上陸員整列。六時三十分、酒保開け。八時三十分、巡検。九時三十分の消灯で一日が終わる。
 「新三」と呼ばれる海兵団出たての三等兵に対する訓練と罰直について、森川は、「大変厳しかった」としか語らなかったが、その苛烈さは、海兵団の比ではなかった。
海軍は、厳格な上意下達の階級社会であったが、下士官兵の間では、食べた麦飯の、飲んだ味噌汁の数がものをいう社会であった。
 古参の下士官兵は、制服の右袖に「へ」の字のマークを何本も付けている。これは善行章と呼ばれるもので、この善行章には、海軍に三年間奉職すると一本付けることが出来る普通善行章と、いちじるしい軍功を立てた者や、乗っている軍艦の危急を未然に防いだ者になどに与えられる、への字のマークのまん中に桜が一つ付く特別善行章とがあった。
 軍艦に乗組んでいる兵の中には、四等水兵として海兵団で五ヶ月半の教育訓練を受け、三等水兵として艦隊勤務が始まり、勤務成績優秀と見なされて術科学校に入学、善行章なしの三年未満で一等水兵に進級する「お提灯」と呼ばれる者もいる反面、善行章一線を付けながら一等水兵になれない「楽長」と呼ばれる者、六年以上海軍に奉職して善行章を二線付けながら下士官に任官出来ない「善ツー」と呼ばれる者がいた。
 この楽長と善ツーが人事におけるやり場のない憤懣を、海兵団を出て軍艦に乗組んできた新三こと新米三等兵にぶつけ、殴る蹴るはもとより、ストッパーや精神注入棒、ハンマーの樫の柄などを使って凄惨な制裁を加え、自殺や逃亡する新兵を少なからず生み出していた。この傾向は、「鬼の山城、地獄の金剛、音に聞こえた蛇の長門」とか、「日向行こか、伊勢行こか、いっそ海兵団で首吊ろか」という具合に、軍艦が大きくなるにしたがい、ひどくなると噂されていた。
 森川は、常磐乗組み中に、第八期飛行練習生(昭和五年六月に操縦練習生に改称、五十八期まで続く)として霞ヶ浦海軍航空隊に入隊することを志願した。
 大正末期の海軍の兵種は、「水兵」、「機関兵」、「軍楽兵」、「船匠兵」、「看護兵」、「主計兵」の六種類であり、「航空兵」という兵種は設けられていなかった。森川のような水兵がパイロットとなるには、志願して飛行機の操縦を学ぶ飛行練習生になることであった。
 海軍は、歩兵が主体の陸軍に比べ、下士官兵の教育を重視し、明治四十年創立の海軍砲術学校や水雷学校、工機学校、大正九年創立の潜水学校など各種術科学校を設置していた。海兵団で兵としての基礎教育をたたき込まれ、艦船乗組みを経験した後、試験を受けて各術科学校に入校し、特修兵として専門的な技術と知識を習得するのである。
 それら海軍の術科学校の中で、もっとも人気があったのは、大艦巨砲主義の総本山、横須賀海軍砲術学校であった。
 しかし、森川の脳裏には、同じ小豆島出身の空林永治(第二期飛行練習生)が郷土訪問飛行の際、水上飛行機を波静かな内海湾に着水させ、島民に歓呼の声で迎えられていた光景が焼き付いていた。
 波飛沫を蹴立て、ウエーキーを引きながら海原に離着水する水上飛行機の勇壮な姿、無限に広がる大空を自由自在に飛ぶ空林にあこがれていた森川は、迷うことなく第八期飛行練習生に志願した。
海軍では、兵から下士官への進級や術科学校に入校する際に厳格な試験を実施して選抜していたが、志願する者の生命にかかわる重大な事柄を決定する時には、本人の意志はもとより、親もしくは後見人の意向を尊重するという慣習があった。そのため、飛行訓練において事故の多発していた飛行練習生を志願する条件の一つとして、親もしくは後見人の承諾が必要だった。
 森川は父親に手紙を書き、霞ヶ浦の飛行練習生を志願する旨の許可を求めた。
 折り返し送られてきた父親からの手紙には、署名捺印した同意書とともに、「勲、お前の好きな道に進めばいいが、体だけは大事にしろ」と書かれていた。
 海軍における飛行機操縦員養成の始まりは、大正元年に設けられた海軍操縦講習員にさかのぼる。当初は兵科将校に限られていたが、大正九年下士官兵にも門戸が開かれ、五月十五日に八人の下士官が第一期飛行練習生となり、飛行機操縦員としての養成を受けることになった。
 これには理由があった。大正元年の第一期飛行学生から第四期までは、全員が志望者であったが、飛行訓練中の事故による殉職者が続出したため、第五期以後は志望者が減り続け、第六期飛行学生では十一名採用に対して志望者わずかに二名(その内の一名は山階宮武彦王)、次の七期では十名採用のところを、志望者一名にまで激減してしまった。そこで海軍は、士官パイロットの不足を埋めるために、大正九年に入ると海軍航空隊令を改定し、飛行練習生制度を発足させ、「操縦員ーー飛行機ノ操縦ニ従事スル水兵員ヲ以テ之ニ充ツ。機上作業員ーー飛行機操縦以外ノ機上作業ニ従事スル水兵員ヲ以テ之ニ充ツ」とし、下士官兵の飛行機搭乗員養成に取りかかったのである。
 勉学の意欲がありながらも、家庭の事情などで上級学校へ進むことが出来ず海軍を志願した下士官兵にとって、戦艦「陸奥」や「長門」などの乗組みと同じように、大空を飛ぶ飛行機を思うがままに操ることは、本人の努力しだいで手にとどく夢であった。それ故、飛行練習生への試験は外の術科学校とは違い内容は高度、特に身体及び飛行適性検査は極めて厳格なもので、第一期飛行練習生から七期までの卒業生は、わずか七十二名という、難関中の難関であった。
 森川は、勤務の合間のわずかな休憩時間、消灯までの時間など、寸刻を惜しんで猛勉強を続けた。また常磐が入港し、上陸が許された時など、わき目もふらず勉学に励み、佐世保鎮守府凱旋記念会館において行われた第八期飛行練習生の一次試験(数学、国語、作文)にのぞんだ
一次試験に合格した森川は、霞ヶ浦海軍航空隊(通称・霞空)に「飛行練習生予定者」として仮入隊するため、佐世保駅から汽車を乗り継ぎ、茨城県土浦駅を目指した。
その頃、海軍において飛行機搭乗員として操縦、偵察、整備、電信などを学ぶ練習生と兵学校出の学生は、大正十一年十一月に練習航空隊として開隊された霞ヶ浦海軍航空隊で教育を受けていたのである。
一人前の飛行機操縦員に育てあげるために、海軍は莫大な経費と労力を費やさなければならない。だからこそ選抜に選抜を重ね、学力はもとより心身ともに操縦員に向いているかどうかを判断しなければならない。一次試験を通った飛行練習生予定者は、霞ヶ浦航空隊で行われる厳格な身体検査や飛行適性検査などの二次試験でふるいにかけられ、晴れて飛行練習生となり霞ヶ浦の大空に舞い上がれるのは、二十人に一人、三十人に一人と噂されていた。