海軍航空隊総本山・霞ヶ浦海軍航空隊

 昭和七年十二月一日、森川は霞ヶ浦海軍航空隊に転勤となり、操縦練習生(昭和六年、それまでの飛行練習生は操縦練習生、通称・操練と名称改正)水上機専修者の教員を命じられた。
昭和五年六月、霞ヶ浦航空隊は横須賀航空隊とともに、教育を主任務とする練習航空隊(通称・練空)に指定された。操縦や偵察練習生を卒業して航空隊勤務を経験した飛行機搭乗員は、一度は霞ヶ浦航空隊や横須賀航空隊に教員として転勤を命じられる。これを下士官兵搭乗員の間では、「お礼奉公」と呼んでいた。
 霞ヶ浦航空隊は、森川が八期飛行練習生として訓練に明け暮れていた開隊間もない大正末期とは、その規模と様相を一変させていた。
大正八年、海軍は水上機、陸上機の飛行訓練に適する地として霞ヶ浦を選定し、水上機用に二百九十万坪、陸上機用に八十万坪、合わせて三百七十万坪という広大な敷地を買収した。翌九年から飛行場と霞ヶ浦の湖畔に水上機基地の建設に着手し、十一年十一月一日、霞ヶ浦海軍航空隊を開隊した。その後、その規模は毎年整備拡張され、森川が操縦練習生の教員として勤務する昭和七年には、広漠とした飛行場は二千五百メートル余り、その東の端に航空隊本部と大講堂、兵舎、士官舎、学生舎が建ち並んでいた。また、飛行場の中央とその周辺には格納庫が点在し、丸ビルが六つすっぽり入るといわれた巨大なツェッペリン格納庫(第一次世界大戦におけるドイツよりの戦利品である飛行船格納庫)が偉容を誇っていた。
 操縦練習生の試験は、森川が志願した頃と同じように難関中の難関であった。
森川が教員を務めた第二十一期操縦練習生の場合、まず第一次試験で志願者二千人余りの三分の一がふるいにかけられ、一ヶ月間の仮入隊で五十名にまで絞り込まれる。さらに入隊しても飛行機操縦の適性に欠けると判断されたり、飛行訓練中の事故などで、無事に卒業出来たのは、わずかに三十名(水上機専修者は十一名)であった。
昭和八年の霞ヶ浦の空は、これら下士官兵より志願した第二十一期操縦練習生の外に、海軍少年航空兵と呼ばれていた第一期飛行予備練習生(後の乙種飛行予科練習生)と兵学校出の第二十四期飛行学生、民間航空のパイロットとなるために逓信省が海軍に飛行訓練を委託した逓信省委託練習生などが、陸上機専修者は高台の平坦地にある飛行場で、水上機専修者は広大な霞ヶ浦で、さながら熊蜂がブンブンと音を立てて飛び交うように飛行訓練に励んでいた。
 水上機班で使用される練習機は、一三式初歩水上練習機と一五式水上偵察機であった。
一三式初歩練習機は、アブロ504練習機の後継機として大正十三年に横須賀海軍工廠で設計、試作され、翌十四年十月、一三式練習機(K1Y)の名称で海軍に制式採用された。アブロ504練習機と同じように、車輪付の陸上機型(K1Y1)と双フロート付の水上機型(K1Y2)があり、昭和九年までに百四機(横廠六機・中島四十機・川西四十八機・渡邉十機)が製作された。複葉木骨羽布張り双フロート、乗員二名、全幅十・二〇五メートル、全長八・六八メートル、全高三・四七メートル、全備重量一・〇五トン、瓦斯電ベンツ式水冷直列六気筒百三十馬力発動機一基搭載、最高速度百二十九・六キロ、巡航速度百一・八キロ、航続時間三時間という諸元、性能で、練習機らしく視界をするために上翼と下翼の間隔を広くとっているのが特長であった。中島飛行機で製作された一三式水上練習機は、ジュラルミン製のフロートを装着した海軍初の水上機であった。
 一五式水上偵察機(E2N1)は、中間練習機教程で使われていたハンザ水上偵察機の基本設計を踏襲したもので、設計、試作は中島飛行機であった。複葉木骨羽布張り双フロート、乗員二名、全幅十三・五二メートル、全長九・五六五メートル、全高三・六八八メートル、全備重量一・九トン、最高速度百七十二キロ、航続時間五時間という諸元、性能で、戦艦や巡洋艦のカタパルトからの射出に耐える海軍初の、木骨構造としては最後の水上偵察機であり、偵察機らしく下方視界のよい一葉半の主翼とカタパルト射出に耐える堅牢な機体は、練習機としても適していた。
一三式水上練習機、一五式水上偵察機ともに、森川の頃に使用されていたアブロ五〇四水上練習機やハンザ水上偵察機と違い、発動機の調整は簡易、横風に対する安定性は格段に向上していた。
教員飛行服に教員腕章を右腕に付けた森川ら水上機班の四人の教員は、操縦練習生水上機専修者十一名と逓信省委託練習生水上機専修者四名を受け持った。
森川の受け持つ操縦練習生は三名。その中の一人に、後年『奇跡の飛行艇・大空に生きた勇者の記録』(光人社)の著者である元海軍少尉の北出大太がいた。
北出は、昭和六年海軍に志願、横須賀海兵団機関科卒業後、霞ヶ浦航空隊に三等機関兵として配属されたが、パイロットの夢を捨てがたく、操縦練習生に志願しようとした。しかし、父親が社会に出て技術者としてつぶしの利く機関兵なら許すが、危険な飛行機乗りになることに反対していたため同意書がもらえず、考えあぐねた末、土浦の印判屋で印鑑を作り、同年兵が代筆した同意書を提出して見事難関を突破、第二十一期操縦練習生となる。操練卒業後、館山航空隊、横浜航空隊勤務、日華事変では江上航空隊の九一式飛行艇パイロットとして活躍、空技廠飛行実験部のテストパイロットを経て、太平洋戦争開戦とともにアンボン島の九三四航空隊、第二南遣艦隊司令部付きとなりジャワで終戦を迎えるという、歴戦の飛行艇乗りであった。
 森川は、北出練習生のことを、
「北出大太のことはよく覚えています。霞ヶ浦ではこの『奇跡の飛行艇』に書いている通り、あまり出来はよくありませんでした。教員の間でも偵察に回そうかという話が出たこともありますが、それも忍びないと決めかねているうちに卒業となったのです。操縦から偵察や電信に回されることは、大変つらいことです。しかし、本人がどんなに努力してもパイロットに適さない練習生がいます。操縦に適さない練習生は偵察や電信に回さなければなりません。同情は本人のためになりません。でないと、墜落して死んでしまいます・・・操練での北出の成績はよくありませんでしたが、立派なパイロットになってくれました。一緒に写っている青木はフィリピンで戦死しました」
このように述懐しているが、北出自身、自分が首切りのボーダーラインにいたことを自覚していたらしく、
「昭和八年九月二日、私は霞ヶ浦の教程を終えて卒業した。しかも、三十名中三十番というビリの成績であった。」
 自著『奇跡の飛行艇』の中でこう述べている。