森川勲、小豆島と別れを告げて海軍へ

 大正十三年四月、十八歳を迎えた森川は海軍を志願し、見事合格した。
 六月一日、小豆島での教員生活に別れを告げた森川は、四国や九州出身者が入団する佐世保海兵団の門をくぐり、服の色から「カラス」と呼ばれる日給十七銭の海軍四等水兵となった。
 日本海軍おける水兵や機関兵の始まりが、咸臨丸の水夫、火夫として太平洋横断を成し遂げた瀬戸内海の塩飽諸島の漁夫や水主であったように、軍艦を動かす水兵や機関兵には、海と船に対する経験にもとづいた知識と技術が不可欠であり、それらは一朝一夕には身に付かない。明治四年、「沿岸漁夫ノ子弟ニシテ十八歳以上二十五歳以下ノ身体強健ナル男子ノ志願者ヲ地方官ニオイテ選出スベシ」という布告を出したのはこのためであった。
 明治十六年四月、海軍にも陸軍と同じく明治六年に発布された徴兵令にもとづく徴兵制度が導入されたが、鉄砲を担いで自分の足で歩く陸軍の兵卒と異なり、軍艦を動かし、大砲を撃つには科学的、合理的な思考方法と知識、特に数学や物理の基礎知識は不可欠であり、森川のような小学校の教員や商工業に携わっていた民間人に水兵服を着せ、軍艦に乗組ませても、そのままでは水兵、機関兵にはなれない。どうしても一定の教育期間がいる。そのため海軍は、本人の意思で長年にわたって勤められることを希望する志願制度を存続させ、その足らずを徴兵で補うという形態を堅持した。
 志願兵の現役服務期間は六年(昭和二年の兵役法改正で五年となる)、身体検査と学力試験に合格した者は、六月一日、鎮守府管轄下の海兵団に入団、五ヶ月半の新兵教育を受けた後十一月中頃に卒団し、所轄の軍艦に乗組むのである。一方、満二十歳を迎えて徴兵検査に合格、海軍に回された徴兵の現役服務期間は三年、一月十日に入団、五月末に卒団という具合に、志願兵と徴兵がかち合わないように、時期をズラして新兵教育を行った。
これら新兵の教育を掌る海兵団を管轄下に置く鎮守府とは、明治八年、明治政府は日本を異国の侵略から守るために日本列島を取り巻く外海を二つに区分し、横浜と長崎に提督府を置いた。これが鎮守府のルーツであり、明治十七年になると横須賀鎮守府(第一海軍区・所轄は静岡、長野、新潟以東の本州及び北海道、樺太)、二十二年には呉鎮守府(第二海軍区・所轄は愛知、岐阜、富山以西の本州)、佐世保鎮守府(第三海軍区・所轄は四国、九州及び沖縄)が開府された。続いて三十四年に第四海軍区として舞鶴、三十八年には旅順に鎮守府が開府されたが、大正三年に旅順が、十二年にはワシントン条約により舞鶴が要港部に格下となった。(舞鶴は昭和十四年に再び鎮守府となる)
海軍は、戦艦「陸奥」は佐世保、「長門」は横須賀という具合に、横須賀、呉、佐世保の三鎮守府のいずれかに艦籍を置き、徴兵や海軍を志願した所轄府県出身者を、管轄下の艦船に乗組ませていた。そのため鎮守府には、乗組員の食糧や弾薬などの補給を掌る外、訓練が終わり入渠して艦底に付着した蛎殻の除去、錆落としやペイント塗り、機関、補機、主砲を初めとした各種兵器の点検、調整、修理を掌る海軍工廠が設けられていた。
 森川のような海兵団出身者にとって鎮守府は、海軍省人事部が統括する士官とは異なり、下士官兵の進級、転勤、功績、婚姻届などは、所轄の鎮守府人事部が掌握していた。第二の故郷、本籍地とも言えるところであった。
森川が海軍を志願した大正十三年という年は、ワシントン軍縮会議締結により、大正九年の原内閣第四十三議会で建造予算が可決されていた八八艦隊案が崩れ去り、戦艦「安芸」、「薩摩」以下十四隻は解体や標的艦として、建造中の戦艦「土佐」、巡洋戦艦「天城」の解体や廃棄処分が次々と行われ、日本海軍の主力艦は、「陸奥」、「長門」、「扶桑」、「山城」、「伊勢」、「日向」など戦艦六隻と、「霧島」、「榛名」、「比叡」、「金剛」など巡洋戦艦四隻だけとなっていた。
 将兵も例外ではなかった。兵科将校を育成する海軍兵学校では、八八艦隊整備のために、それまで百五十名余りの採用生徒数であったのを、五十、五十一、五十二期では倍の三百名と増員していたが、このワシントン軍縮会議の影響をもろに受けた五十三期は、一挙に五分の一の六十名余りに減じられるという未曾有の軍縮クラスとなり、実に百倍(志願者約六千名)もの難関となっていた。また、千七百名の士官、准士官、五千八百名余りの下士官兵が、さらには一万四千名にも上る海軍工廠の技術者や職工が解雇されるという、海軍にとって建軍以来初めてというリストラの嵐が吹き荒れていた年であった。
それまでの日本海軍は、その量、質とも拡張に次ぐ拡張を重ねていた。
二十世紀初頭、欧米列強は大海軍構想をこぞって打ち立て、他国よりも強力な海軍力を保有しようと鎬を削っていた。イギリスしかり、ドイツ、ロシア、アメリカしかりであった。そして、その海軍力を誇示するものが大艦隊であり、海戦の帰趨を制するのは、大口径の主砲と分厚い装甲を装備した巨大な戦艦であると信じられていた。
 日本と同じ島国で、世界中に広大な植民地を有する一大海軍国イギリスは、日本海海戦からわずか一年六ヶ月後の明治三十九年十二月には、排水量一万七千九百トンながら二十一ノットの速力と三十・五センチ主砲十門を搭載する戦艦「ドレッドノート」を竣工させた。続いて一万七千トン、二十五ノット、三十・五センチ主砲八門を搭載する装甲巡洋艦「インビンシブル」を竣工させて各国海軍に衝撃を与えた。さらにイギリスは、明治四十五年に入ると、戦艦「オライオン」、巡洋戦艦「ライオン」を相継いで竣工させた。この二戦艦は「ド級」と呼ばれたドレッドノートを凌ぎ、「超ド級」と呼ばれた。
 国の存亡を賭けた日本海海戦で、「艦隊決戦」、「大艦巨砲」という大海軍構想を実証して見せた日本海軍もまた、太平洋を挟んで対峙するアメリカを仮想敵国と目し、アメリカ太平洋艦隊を内南洋上で邀撃して撃滅させるための大艦隊の擁立計画を策定、艦齢八年以内の二万トン級戦艦八隻、一万八千トン級装甲巡洋艦八隻を主力とする「八八艦隊」構想を打ち出した。
 当初は、八四艦隊案(すでに海軍は超ド級戦艦の「扶桑」、「霧島」を保有し、「山城」、「伊勢」、「日向」は建造中)として、第一次世界大戦中の大正五年に帝国議会に提出され、七年の第四十議会で八六艦隊案が、九年の原内閣第四十三議会において、海軍の念願であった最新鋭戦艦八隻(「陸奥」、「長門」、「土佐」、「加賀」、「紀伊」、「尾張」、「第十一号艦」、「第十二号艦」)と、巡洋戦艦八隻(「天城」、「赤城」、「高雄」、「愛宕」、「第八号艦」、「第九号艦」、「第十号艦」、「第十一号艦」)の主力艦隊(第一艦隊)と、艦齢八年から十六年の戦艦七隻(「扶桑」、「山城」、「伊勢」、「日向」、「摂津」、「安芸」、「薩摩」)と、巡洋戦艦七隻(「霧島」、「榛名」、「比叡」、「金剛」、「生駒」、「伊吹」、「鞍馬」)の第二艦隊の外、巡洋艦二十四隻、駆逐艦六十四隻、潜水艦七十四隻からなる八八艦隊案が可決され、軍艦の建造に一層の拍車がかかったが、この八八艦隊構想実現への歳費は、大正十年度の国家予算の実に三十二パーセントを占めるまでに至り、その財政負担は国家経済をいちじるしく圧迫していた。
 軍艦の建造費が国家予算を圧迫していたのは、欧米各国でも同じであった。大正十年(一九二一年)十一月十二日、アメリカの呼びかけで開催されたワシントン軍縮会議において、米(アメリカ)、英(イギリス)、日(日本)、仏(フランス)、伊(イタリア)の主力艦と航空母艦保有総トン数を減らし、その比率をアメリカ五、イギリス五、日本三、フランスとイタリアは一・七の割合とするアメリカ案が提出された。
 陸海軍の軍事費が国の歳出の四十八パーセントにも達し、これを苦慮していた日本政府は、海軍部内に条約締結を望む「条約派」と、これに反対する「艦隊派」の相克はありながらも、アメリカ案を受け入れた。これにより米英日仏伊の各国は、新造艦の建造中止や保有艦の廃棄処分、向こう十年間の建艦休止という「海軍の休日(ネイバル・ホリディー)」に入った。
このように大正十三年の日本海軍は、限られた人、艦船、予算のもと、「量」から「質」への転換のまっただ中であった。
 横須賀、呉、佐世保の三海兵団の中でも、訓育の規律がもっとも厳しく、軍規、風紀の風が吹く佐世保海兵団に入団した森川は、教班長の怒号のもとハンモック釣りから始まり、掌は肉刺だらけ、尻が真っ赤にすりむける海兵団名物のカッター(短艇橈漕教練)、通舟、手旗、発光信号、諸例則、勅諭、水泳、結束、柔道、剣道、相撲、銃剣術、艦砲操作、陸戦教練、練習艦での艦務教練などの新兵教育をみっちりとたたき込まれた。
 森川の得意とした教程は、通舟と水泳であった。
通舟とは、黒塗りの手漕ぎ舟(伝馬船)で、連絡や荷物運搬に使われ、港や艦船にはなくてはならないものであったが、櫓や櫂を漕いで通舟を自由自在に操れるようになるには、「櫓櫂三年竿八年」と言われるように、年季がものをいう。まして新兵の中には、海を見たのも、櫓櫂にさわったのも初めてという者もおり、教班において通舟は、祖父の楫子として沖へ出て櫓を漕いでいた森川と塩飽の漁師の息子の独壇場であった。
森川にとって、海兵団での新兵教育は、さほどつらいと思わなかったが、嫌悪感を覚えたのは、森川を担当した教班長が底意地の悪い兵曹だったため、起床から就寝までの間、森川ら新兵に言いがかりとしか思えないような些細な過失を言いたて、バッター(海軍精神注入棒)と呼ばれる樫の棒で臀部が青黒くなるまで叩き続けるのを初めとして、陰湿残忍な体罰を加えたことであった。
森川は、五ヶ月半にわたる海兵団の新兵教育を終えると、その年の十一月十五日、日給三十四銭の三等水兵に進級、十二月一日、佐世保鎮守府艦籍の敷設艦常磐」に配属され、十五センチ副砲の砲側伝令員を命じられた。
 常磐は、日清戦争後仮想敵国となったロシアに対抗すべく計画された「六六艦隊(排水量一万五千トンクラスの戦艦六隻、九千トンクラスの装甲巡洋艦六隻)」の一翼を担う、イギリス・アームストロング社建造の一等巡洋艦として明治三十二年に姉妹艦「浅間」とともに竣工した。排水量九千八百八十五トン、最高速力二十一・二五ノット、二十センチ主砲四門、十五センチ副砲八門、魚雷発射管二門を装備、北清事変では常備艦隊旗艦として活躍し、日露戦争では上村彦之丞中将率いる第二艦隊に所属、ウラジオストック艦隊、バルチック艦隊と砲火を交えた歴戦の一等巡洋艦であったが、すでに艦齢二十五年を超えた老朽艦であり、大正十一年に敷設艦に改造されていた。