大空への階(海軍飛行練習生)・名テストパイロット森川勲の生涯を紹介します。

大空への階(海軍飛行練習生)


 東瀬戸内海の播磨灘と備讃瀬戸の迫間に浮かぶ子牛の形をした小豆島は、瀬戸内七百余島と呼ばれる島々の中で、淡路島に次いで二番目に大きな島である。
その小豆島の戌亥(北西部)、ちょうど子牛の肩口に位置する四海村(しかいむら)伊喜末(いぎすえ)という戸数二百五十戸余りの小集落から、浜田松太郎(日本郵船貨客船船長)、浜中脩一(駆逐艦長)、鷹尾卓海(連合艦隊戦務参謀)、森川勲(二式大艇主務テストパイロット)という、太平洋戦争中それぞれの分野で活躍した四人が相継いで輩出された。
浜田松太郎は、明治十一年、伊喜末地区の属島である小豊島に生まれ、粟島商船学校卒業後、日本郵船に入社。太平洋戦争中は日本郵船の誇る最新鋭貨客船「阿波丸」の船長を務め、軍需物資の輸送に活躍。昭和二十年四月一日夜半、日本の占領地下で抑留されていた連合国軍の捕虜への救援物資を阿波丸にて運搬し、シンガポールから敦賀に向かう復航の台湾海峡において、アメリカ海軍の潜水艦「クィーンフィッシュ」の魚雷攻撃を受け、浜田は阿波丸と運命をともにした。白十字を付けた救恤輸送船阿波丸への無警告の魚雷攻撃は、乗組員と乗客合わせて二千人余りがクィーンフィッシュに助け上げられた一人を除いて死亡するという、日本のみならず世界の商船海難史上最大の惨劇となった。
 浜中脩一は、明治三十三年九月十一日、農業を営む浜中音市の次男として生まれ、高松中学から江田島海軍兵学校五十一期に進み、卒業後は巡洋艦「浅間」を振り出しに砲艦や駆逐艦などに乗組み、昭和十三年の武漢作戦では砲艦の艦長として機雷が敷設された揚子江を卓越した操艦で遡航し、その功により金鵄勲章を授与される。十五年、駆逐艦「初霜」、十六年九月十日、第二艦隊第四水雷戦隊第二十四駆逐隊「山風」の駆逐艦長となり、太平洋戦争が始まって間もなくの十七年一月十二日、タラカン北水道においてオランダ海軍の敷設艦「プリンス・ファン・オラーニエ」を撃沈。翌二月十一日にはメナド東方海域でアメリカ海軍の潜水艦「シャーク」を撃沈するという軍功を立てたが、ミッドウェー作戦から帰還してすぐの六月二十三日、大湊への輸送船護衛任務を終えて柱島へ単艦向かう途中、濃霧の房総半島沖においてアメリカ海軍の潜水艦「ノーチラス」の魚雷攻撃を受け、浜中は山風と運命をともにした。同日、浜中は海軍大佐に特進、正五位に叙せられた。
 鷹尾卓海は、明治三十七年十月三十日、伊喜末八幡宮の神官鷹尾新太郎の長男として生まれ、高松中学から海軍兵学校五十三期に進み、昭和七年に勃発した第一次上海事変には海軍特別陸戦隊機銃中隊長として活躍。兵学校教官を経て第三十五期甲種学生として海軍大学校に入学。戦艦「長門」の副砲長などを歴任した後、十五年十一月、大本営海軍参謀、軍令部第一部第二課勤務。十八年五月、渡辺安次の後を受けて連合艦隊戦務(砲術)参謀に転補。二十年一月十五日早朝、南支那方面における連合国軍邀撃作戦の打合せのため、陸軍の参謀島村矩康大佐とダグラス(零式)輸送機に乗り上海経由で香港に向かう途中の汕頭沖上空において、折悪しく日本輸送船団攻撃のために北上中のアメリカ空母機動部隊の艦上機に襲われ、燃え盛るダグラスとともに南支那海の蒼穹に散った。同日、鷹尾中佐は浜中と同じく海軍大佐に特進、正五位に叙せられた。
 四人の中で一番若く、この本の主人公である森川勲は、明治四十年二月八日、父・重太郎、母・コヨツの三男として香川県小豆郡四海村伊喜末七十一番地に生まれた。
 「農山漁村の名が全部当てはまるような、瀬戸内海べりの一寒村へ、若い女の先生が赴任してきた」ーーこれは小豆島出身の小説家壺井栄の名作『二十四の瞳』の巻頭の部分であるが、まさしく小豆島の村落の大部分が農山漁村であった。四海村も例外ではなく、段々畑での農業と細々とした漁業を主とした海辺の寒村であった。
 森川の家の家業は、先祖代々石屋であり、祖父・善六は腕のいい石工であったが、重太郎の代に風呂屋に転業した。
 温暖寡雨な瀬戸内式気候は、勾配のきつい細々とした河川しか有さない讃岐平野や瀬戸内の島々に住む民人を、古来より水不足で苦しめてきた。弘法大師空海が日本一大きなため池である満濃池を築堤したのは、渇水に苦しむ讃岐平野の衆生を救済するためであった。備讃瀬戸に浮かぶ小豆島もまた、万劫の昔から水不足に苦しみ、ため池のわずかな水の配分をめぐって騒動が頻繁に起こっていた。
その小豆島の中でも、河川のない海辺の四海村では、風呂を設けている家は少なく、夏場は井戸の脇での行水で過ごすものの、冬場は内風呂のある懇意な家へもらい風呂に行くという具合に、村人にとって、入浴するということは、ささやかな贅沢であった。島の山間部の村では、皮膚病や神経痛治療のために山肌を穿って造った洞窟を、蒸し風呂として使用していたほどである。
 幸いにも森川の家は海に面していながら、日照りが続いても涸れることのない井戸があり、水には不自由しなかった。善六とともに石工をしていた重太郎は、この井戸を利用して小さな風呂屋を開業した。
 風呂屋は、大量の水と燃料を必要とする。森川は、物心つくとすぐに井戸からの水汲みや風呂を沸かすための松や雑木の割木を求めて兄たちとともに山へ入り、薪を山盛りにした背負籠を背に、山と家とを何度も往復した。
また祖父・善六は、孫の中でも温順な森川を殊の外かわいがり、自分の釣り舟の楫子(かじこ・舟の櫓を漕ぐ子ども)として沖へと連れ出し、櫓捌き、舟捌きはもとより、鯛や鱸、島に春を告げる鰆などの釣りの手法を教えた。
飛行艇に乗っていろいろなところを飛び回りましたが、子どもの頃におじいさんの楫子として海と風の知識を身につけていたことが大いに役立ちました。また、家の仕事を手伝っていたおかげで、若い頃は風邪など引いたことはありませんでした」
 尋常小学校時代の森川は、水汲みや薪集めなどの山仕事、祖父の楫子のためにしばしば学校を休んだが、尋常科で学ぶ、修身、読書、作文、習字、算術、図画、体操などの考査(成績)は常にクラスで一、二番であった。さらに運動神経に優れるとともに、学校随一の俊足であった。
「森川さんはおとなしくて頭のいい人でした。戦前の話ですが、森川さんは川西という飛行機の会社でテストパイロットをしていました。秋祭りなどは大きな飛行艇に乗って村によく帰ってきました」
森川と同級生で、今も地元で医院を開業している岡宏は、小学生時代の森川をこう語っている。
 森川が尋常高等小学校時代の大正六年、香川県は「児童ノ道徳的信念」及び「帝國臣民タルノ根基ヲ養フ」ことを教育の目的とし、学校への出席や進学の奨励をした。森川の生まれた四海村は、小学校(明治五年)を小豆島でもっとも早く開校させたように、村を挙げて「邑ニ不学ノ戸ナク、家ニ不学ノ人ナカラシメン」と村民皆学に力を注ぎ、瀬戸内の島嶼部の寒村ながら尋常小学校への就学率は、よほどの事情がない限り、ほぼ全員が就学していた。
 しかし、いくら学校の成績が優秀でも、森川は村の小さな風呂屋の三男であった。学校へ持っていく弁当は、麦飯に漬物やサツマイモを輪切りにしてホーロク(土鍋)で炒ったもの、正月と盆、そして秋祭りに白米だけのご飯が食べられるという暮らしであった。森川のような次男、三男は、小学校を卒業すると、石工の見習いか、塩田の浜子になるか、それともよその家へ養子に行くか、それがいやなら職を求めて京阪神など島外へ出て行かなければならなかった。森川に、鷹尾卓海や浜中脩一と同じように高松中学などの上級学校に進学するなどということは、到底望むすべもなかった。
高等科の卒業を控えた森川は、小学校の先生になりたいので、教員養成所に行かせて欲しいと父親に頼んだ。
 森川の父親が、三男でありながら教員養成所に進むことを許したのは、小学校の校長や森川を受け持っていた教師から、「勲君はあれだけ勉強が出来るのだから、何とか行かせてやれないか」という声があったからである。
 伊喜末尋常高等小学校高等科を卒業した森川は、隣村(淵崎村)にある教員養成所に進み、大正十一年三月三十日、尋常高等小学校准訓導を拝命、土庄村にある第二土庄尋常高等小学校(現土庄町立戸形小学校)に赴任した。
 森川、十六歳と一ヶ月、親元を離れ戸形地区の民家に下宿した。初任給は、四級下俸三十円。四年生、四十人を受け持った。
森川の同級生の一人が、尋常高等小学校高等科を卒業して小豆島最大手の会社である丸金醤油の給仕となり、その給金が十一円であったことと比較すれば、十六歳の少年として、また月給とりの少ない島内では、かなりいい部類であった。(その頃、大学生の初任給七十円、米十キロ三円、東京・大阪間の汽車賃六円、映画館の入場料四十銭、散髪代八十銭であった)
 森川の教師としての勤務態度をうかがい知るものとして、山本喜一第二土庄尋常高等小学校校長の大正十二年七月二十一日の日記には、「性質温厚、真面目に勤務して居る。年の割によくやる」と記されている。