海軍生活十一年、満期除隊。

 昭和九年十一月一日、海軍生活十一年、森川は満期除隊を迎えた。
 大正十三年六月一日、十八歳で海軍を志願し、佐世保海兵団、敷設艦常磐乗組み、八期飛行練習生、戦艦陸奥乗組み、佐世保、横須賀、霞ヶ浦などの航空隊のパイロットとして海軍に十一年間奉職、左腕には操練のマークを付けている二十八歳のベテランパイロットであったが、准士官である航空兵曹長止まりであった。
  森川とほぼ同年代、同じ香川県人(香川県白鳥町出身)で、飛行機を通して面識のあった樋端久利雄は、海兵五十一期二百五十五人(卒業時)のクラスヘッドとして卒業。二十歳で海軍少尉候補生、翌年海軍少尉となり、飛行学生ながら海軍中尉に任官、二十七歳で海軍大尉、三十三歳で海軍少佐となっている。また、森川とは幼なじみで、後年連合艦隊戦務参謀となる鷹尾卓海(海兵五十三期)も、樋端とほぼ同じ経歴であった。
 山本五十六大将とともにブーゲンビル島の上空で散華した連合艦隊航空甲参謀樋端久利雄中佐と、志願兵で飛行練習生出身の航空隊パイロットである森川とを比較すること自体に無理があるが、海軍兵学校という「海軍ノ兵学ヲ学ブタメノ学校」出身者というだけで、このような差がつくのは、決して乗り越えることの出来ない大きな障壁となって、キャリア組とノンキャリア組との間に立ちはだかっていたのである。
 森川の友人に、佐藤宗次(大正十四年志願十二期飛行練習生)という、森川と年齢、経歴がよく似たパイロットがいた。
 佐藤は、森川と同じように教員養成所を卒業後、大正十四年海軍に志願、海兵団卒業後、霞ヶ浦航空隊に整備練習生として入隊したが、パイロットになる夢を捨てがたく、難関をくぐり抜けて第十二期飛行練習生となる。卒業後は横須賀航空隊に配属となり、一四式水上偵察機の小型機分隊で腕を磨いた後、飛行艇分隊に移り、F五号飛行艇、一五式飛行艇、八九式飛行艇サウザンプトン飛行艇などに乗り、館山航空隊では九〇式二号飛行艇、九一式飛行艇パイロットを務めた。森川は海軍を満期除隊し、羽田の日本学生航空連盟海洋部に就職したが、佐藤は海軍に止まり、南洋委任統治領下の航空基地建設の調査に従事し、昭和十一年には選修学生として海軍兵学校に入校。卒業後は陸上機に転じ、中攻隊(九六式陸上攻撃機)の小隊長として蘭州爆撃など日中戦争の最前線で活躍。四等機関兵から特務大尉にまで上り詰めた、叩き上げのベテランパイロットであった。
佐藤は、『飛行機雲』(海空友同人共著)に、「海軍とは何であったか」という一文を呈している。
「海軍の操縦員は本来、兵科将校に限られていたが、大正九年下士官兵も対象となり、昭和五年には予科練制度が創設され、いつとはなしに、甲乙及び丙種の別になった。それが為、進級の足並みが乱れ、古参の下級兵が新任の上級兵に整列をかけ、修正をするという不祥事が起きた。今次大戦で、下士官兵搭乗員の活躍は目覚ましいものがあったが、士官搭乗員は、ともすると保身的で臆病な者が多かった。私が初めて木更津空へ着任した時、先ず「スロットル少佐」の話を聞いた。指揮官のH少佐は爆撃が終わると、操縦員の後方から、スロットルを一杯押して全速で列機を置き去りにして逃げ帰るから、このニックネームが付けられたとのこと。下士官兵は士官にニックネームを付けるのが上手で、その他、「韋駄天大尉」、「青芝大尉」、「○○八千」、「飛ばざる隊長」とか、愛嬌はあるが好ましくないものが多い。昭和十四年五月七日、甘粛省の蘭州爆撃の時、漢口基地の大テントの中に、攻撃隊は続々と集まって来た。この時、右翼端小隊のT中尉は指揮官入佐少佐に、指揮中隊二小隊の私の小隊と位置を替えてくれと強引に嘆願していた。指揮官は之を拒否したが、尚も駄々っ子の様に食い下がるので、根負けした指揮官は、遂に私の小隊と交替させることにして、その旨を私に告げてから「攻撃隊整列」をかけた。翼端小隊は鴨小隊と言って、いつも犠牲が多いので、誰でもこの位置を好まない。海兵出の若いガンルーム士官がこの有様なのだ。嘆かわしい次第である。然し運命とは皮肉なもので、この様に当面の難を逃れても彼は五ヶ月後、敵の空襲のため地上で爆死してしまった。昭和十四年十二月一日、蘭州爆撃の時、翼端小隊の私の三番機が白煙を吹き出し次第に落伍し始めた。私は二番機を連れて、三番機を庇うようにして敵戦闘機の銃火を浴びながら飛んでいたが、三番機は遂に力尽きて、急角度で降下自爆してしまった。この時の指揮官、島田少佐は私の小隊の苦闘を知りながら、置き去りにして逃げ去ったのであった。」(海軍とは何であったかーー航空科ばなしあれこれより引用)
 双発の爆撃機である九六式陸上攻撃機と、待ち受ける中国軍の戦闘機との空中戦は、例えるならば、アフリカのサバンナでの水牛とライオンの死闘のようなものであった。水牛はライオンに襲われると、頭を外に向けて円陣を組み、二本の大きな角を振り立てて、子牛や傷ついた牛をライオンの襲撃から協同して守ろうとする。それと同じように、九六式陸上攻撃機の編隊は、群がりよる中国軍の戦闘機に対して、各機の銃座より放つ協同射撃で、攻撃を受けている味方機を庇うしか手だてがなかった。
 編隊から落伍した九六式陸上攻撃機は、すぐさま中国軍戦闘機の餌食となる。また、戦闘機の攻撃を受けた時に、編隊の先頭を飛ぶ指揮官機がスロットルを一杯に押して列機を置き去りにしたならば、編隊は崩れ、後続機は食われてしまうのである。
また佐藤は、「軍令承行令」についてこう述べている。
「海軍には軍令承行令なるものがあって、海軍が解体するまでモタモタしていた。これは兵科将校第一主義で、例えば古参の機関大佐でも、なりたての若い兵科将校の指揮下になる。兵科将校がいない時は、機関科の階級順ということになるのである。必要ある時は、各部の長は特務士官、准士官上等兵曹に軍令を承行せしむる事が出来るとしてあるが、主計、軍医、技術の各士官にはまったく指揮権はない。かつて、重巡「鳥海」が横須賀在泊中、艦長以下士官は宴会で皆上陸、最後まで残っていた副長も、当直将校のT特務大尉に「後を頼む」と言って上陸した。夜の巡検時間になって当直将校が、艦内を廻ってきた処、若い少尉が出てきて「本艦の先任将校は俺だ。何故俺に届けないのか」と親の様な当直将校に食ってかかったとのことである。私はこの話を聞いて憤慨した。然し私は軍令承行令第三條に依り、副長はT特務大尉に軍令を承行せしめたと解釋するのが至当だと思う。」
この兵科第一主義、正統意識に法的根拠を与えた「軍令承行令」とは、戦闘中の指揮権を受け継ぐ順位を定めたもので、大正四年に制定(大正八年改定)されたものである。
第一条 軍令ハ兵科将校官階ノ上下任官ノ先後ニヨリ順次コレヲ承行ス、タダシ召集中ノ予備役及ビ後備役兵科将校ハ同官階ノ現役兵科将校ニ次イデコレヲ承行スルモノトス。
 第二条 兵科将校アラザルトキハ機関科将校軍令ヲ承行ス、ソノ順位ハ第一条に準ズ。
第三条 軍令ヲ承行シ得ベキ海軍各部ノ長ノ必要アリト認ムルトキハ、部下兵曹長上等兵曹、兵曹ヲシテ軍令ヲ承行セシムルコトヲ得。
佐藤が憤慨したように、軍令承行令では、指揮権を兵学校出の兵科将校に、それも同期の場合は、官報告示の任官順位に従って指揮権が与えられ、後任者が前任者を指揮することは出来なかった。その次ぎに指揮権を有するのは機関科将校であると規定されており、軍医、主計、技術、特務などの各科士官は将校相当官であり、指揮権は与えられていなかった。これがために重巡鳥海の年若い少尉が、親のような年齢のT特務大尉に、「本艦の先任将校は俺だ。何故俺に届けないのか」と食ってかかったのである。そればかりか、軍歴二十年以上の機関大佐でも、兵学校出の若干二十一歳の新米少尉の命令に従わなければならないのである。
このように海軍の人事構成は、海軍兵学校、次いで機関学校出身者が絶対的存在であり、同じ航空隊パイロットでありながら、予備士官はもとより、操縦練習生、航空予備学生、海軍飛行予科練習生(乙飛)、甲種飛行予科練習生(甲飛)、丙種飛行予科練習生(丙飛)出身者などは、海兵、機関学校卒業者とは厳然たる一線を画され、宿舎や食事、鉄道の等級、料亭の指定まで、日常のすべての面において差別化が図られていた。
また、これだけではなく、日本海軍は操練など下士官兵出身のパイロットを冷遇し、酷使したという傾向が強い。
 兵学校出のパイロットは、飛行学生を終えると、早い者で五年、通常七年から八年の勤務、三十代前半で少佐に進級、飛行長に任ぜられ地上勤務となり、七、八年後には階級は大佐、航空隊の司令となる。
 これが下士官兵出身のパイロットの場合、特務少尉に任官するのに、もっとも進級の早い甲飛でも海軍入隊から七年、乙飛は九年、操縦練習生がもっとも遅く十二、三年もかかっていた。その上、特務士官は通常大尉止まりで、飛行長などの地上勤務につくことは望めなかった。また、佐藤のように、選抜され選修学生として海軍兵学校に入校しても、航空隊では尉官代用と呼ばれ、兵学校出身者とは区別され、術科学校の高等科で学ぶことは出来なかった。
海軍という巨大な組織の中では、志願や徴兵出身の下士官パイロットが、どんなに努力したところで、そして、いかに人格見識に優れ、経験に裏打ちされた実務的知識や技量に優れていようと、下士官兵出身の飛行艇パイロットのほとんどが、特務少尉、中尉となっても、身体が続く限り現役で飛び続けなければならなかったように、指揮官への登用の道は閉ざされていたのである。
 佐藤は、「海軍とは何であったか」ということについて、次のように締めくくっている。
「終わりに当たって私には帝國海軍という閉鎖社会の中の航空部隊は運命共同体として大きな生き甲斐を感じたのであるが、只一つ痛恨事がある。私は兵学校を卒業して勇躍戦地へ赴き、十三空で中攻隊の小隊長として一年八ヶ月、航空作戦に従事して木空へ帰還したのであるが、当時の隊長、K少佐と喧嘩をした訳でもなく、意見の衝突もなく、只何となく馬が合わぬと言うか、彼の個人的感情で、私の論功も進級も台無しにされた。私だけでなく他の准士官二人も同様な取り扱いをされている。彼は部下を陥れて悦に入る変質者である。こんなバカげた人事が栄光ある帝國海軍に罷り通る限り敗戦は当然だと思う。
私はスランプに陥り、野比海軍病院に入院、その後病気療養中、終戦となったが、彼の為、海軍観も人生観もすっかり変わった。
終戦後K氏は庭の木から落ちて死亡したそうだが、前記T中尉と共に私はちっとも気の毒という気がしないのは、どうしたことか。寧ろ快哉を叫びたいのである。
齢、喜寿を目前にして、人間修養の至らざる、斯の如し。嗚呼」
 森川は、航空隊から再三慰留されたが、あくまでも満期除隊を希望した。八期飛行練習生、飛行歴十年の二十九歳、四十八歳まで海軍に奉職することが出来る准士官(航空兵曹長)、パイロットとしてもっとも脂の乗った時期であったが・・・