森川、壹等飛行機操縦士の免許を取得。

海軍は、飛行機搭乗員、なかんずくその中でも、養成に国民の血税と多大な労力をかけたパイロットの満期除隊を、なかなか認めようとはしなかった。唯一の例外は、羽田の日本学生航空連盟海洋部のような海軍関係の外郭団体や、中島飛行機三菱重工川西航空機などの民間航空機製作会社に、テストパイロットとして就職することであり、昭和十年には八期飛行練習生同期の岩堀庄次郎が三菱に、一期下の青木與は中島に、青木と同期の太田与助は川西に、翌十一年には十四期飛行練習生の乙訓輪助が、太田と同じく川西にテストパイロットとして入社している。
 昭和九年十二月、佐世保海兵団での除隊教育訓練を終えた森川は、妻と三歳になったばかりの長女を連れて東京に向かい、逓信省航空局に航空記録を提出し、壹等飛行機操縦士の資格試験を受け、難なく免許を取得した。
森川が航空局に提出した航空記録というのは、逓信省管轄の民間航空免許を取得する際の基礎資料となるもので、飛行日時、目的、搭乗機種、離陸から着陸までの飛行内容、滞空時間、事故歴などが航空隊の航空記録係によって記入された黒表紙、四手紐、右綴じの書類である。航空記録を見れば、それまでの飛行歴が一目でわかる、いわば、パイロットの戸籍のようなものである。
「戦争に負けた時、テストパイロットをしていた者はアメリカに連れて行かれて危険な試験飛行をやらされるとか、進駐軍パイロットだとわかると、二度と飛べないように手首を切り落とされるなどというデマが流れましたので、ほとんどのパイロットが航空記録を焼き捨てました。私も終戦の時に焼き捨てましたが、残しておけばよかったと思っています」
このように森川は、航空記録を焼き捨てたことを悔やんでいるが、終戦時、進駐軍に陸海軍航空隊のパイロットだとわかれば、「両手首を切り落とされるとか、睾丸を抜かれて去勢される」、いや「アメリカに強制的に連れて行かれ、テストパイロットとして危険な試験飛行を強いられる」とかの流言飛語がまことしやかに流布したため、ほとんどのパイロットが航空記録を焼却処分している。
 森川が取得した飛行機操縦士という免許制度は、「大正十年四月八日付け法律第五十四号航空取締り規則(昭和二年改定)」として公布されたもので、操縦士免許を取得しないと飛行機の操縦は出来ない。免許には、壹等から参等まであり、壹等は営業及び自家用機の両方、弐等は自家用機のみ、参等は自家用機で飛行場周辺だけの空域限定飛行に限られるというものであった。
 昭和十年四月一日、森川は、かねてから話のあった財団法人日本学生航空連盟海洋部に就職し、東京六大学などを初めとした関東一円の大学や専門学校の学生に飛行機の操縦を教える教官となった。
 財団法人日本学生航空連盟(通称・学連)は、昭和五年四月一日朝日新聞社の全面的な後援で設立されたもので、飛行機好きの大学生や専門学生などが、軍の払い下げた練習機を使い、開場したばかりの羽田飛行場(昭和六年八月二十五日)の空を飛び回っていた。
 海軍は、これら飛行機好きの学生に目をつけ、昭和九年六月一日、日本学生航空連盟に「海洋部」を設け、事務所を日比谷公園市政会館内に設置し、海軍航空本部が事業の指導、監督を掌り、在学中に参等、出来れば弐等飛行機操縦士の免許を取得出来るまでに技量を高め、卒業後は霞ヶ浦航空隊に入隊させ、二年間航空初級士官として軍務に服させた後、本来の就職先である官庁や民間会社などに戻し、一朝有事の際は召集して海軍のために働いてもらおうと目論んだ。これが、高等商船学校出の民間船舶会社の船員を海軍予備員として、戦時には軍艦などに乗り込ませるという制度に倣った「海軍航空予備学生制度」である。
 海洋部での飛行訓練には霞ヶ浦航空隊で使われていた練習機が無償で譲渡され、森川のような海軍を満期除隊した航空隊パイロットが教官となり、東京在住の大学生、専門学生に飛行機の操縦を無料で教える。その代わり学生は、卒業と同時に海軍航空予備学生として霞ヶ浦航空隊に入隊を志願することを義務づけられていた。入隊を志願しない場合は、それまでかかった飛行訓練の費用の全額、もしくは一部を償還しなければならないというものであった。
 日本学生航空連盟海洋部への入団は難しく、森川が就職した前年の昭和九年には大学生や専門学生併せて百四十人余りが入団を希望したが、一次の身体検査で半数、二次の学科試験でまた半数、三次の飛行適性検査を合格し、晴れて入団を許され「学鷲」となったのは、わずかに二十一名であった。
 その第四期海軍航空予備学生の中の一人が、後年、川西航空機で森川とともにテストパイロットを務め、「森川飛行士は操縦の神様のような人」、「名人森川飛行士」と終生敬慕した岡本大作(日本大学)であり、その前の第三期には、これも川西で紫電改の主務テストパイロットを務めた岡安宗吉(横浜高等工業学校)がいた。
海洋部での森川の仕事は、土曜の午後と日曜の午前中、三、四名の学生を受け持ち、アブロ504K型陸上練習機や三式陸上初歩練習機を使っての飛行訓練と、霞ヶ浦の北方に開隊されたばかりの霞ヶ浦航空隊友部分遣隊(昭和九年六月二十二日開隊。後の筑波海軍航空隊)で行われる大学生や専門学生との夏休み、冬休みの合宿などであった。
アブロ504K型陸上練習機は、大正十四年八月、森川を初めて大空へと誘ったアブロ504L型水上練習機の陸上機型であった。霞ヶ浦で森川が乗っていたのは、イギリスから輸入されたアブロ練習機であったが、その後、中島と愛知時計電気で陸上機型、水上機型併せて二百八十機余りが国産化され、練習機として第一線を退いた後は、日本学生航空連盟海洋部や民間の飛行機学校などに払い下げられていた。また、三式陸上初歩練習機は、横須賀海軍工廠造兵部飛行機工場がそれまで長く使われていたアブロ練習機の機体の設計を踏襲しながら、主脚、尾翼、主翼端などを改良し、発動機をシリンダーがプロペラとともに回転して冷却するル・ローン空冷回転式から三菱モングース空冷式星型五気筒百三十馬力に換装した練習機であった。一号型(K2Y1)と発動機を「神風」に換装した二号型(K2Y2)があり、いずれも複葉木骨羽布張り、乗員二名、全幅十・九七メートル、全長八・六七メートル、全高三・三一メートル、全備重量八百六十五キロ、プロペラ型式木製固定ピッチ二翅、最高速度百五十六キロ、巡航速度百一・〇八キロという諸元、性能で、操縦訓練に不可欠な安定性に優れ、昭和五年一月、海軍に制式採用されて以来、最後の三式初歩練習機が日本飛行機で造られたのは昭和十五年という長命機で、一号機型、二号機型併せて三百六十機製作された。森川が霞ヶ浦航空隊で第二十一期操縦練習生水上機班の教員を務めていた昭和八年、陸上機専修者のために使用されていたのが、この三式陸上初歩練習機であった。
 三式初歩練習機の傑出した安定性を物語るものとして、霞ヶ浦航空隊で飛行訓練に励んでいた第一期飛行予備練習生の一人が単独特殊飛行訓練を開始した直後に突然半身不随となり、乗っていた三式初歩練習機は錐もみ状態となった。練習生はかろうじて機外に脱出、落下傘で降下したが、そのまま墜落かと思われた無人の三式初歩練習機は、二、三度錐もみをしたところで通常の降下姿勢をとり、まるでパイロットが操縦をしているかのように飛行場北端外れの畑に着陸した。それ以来、「三式初練はなまじ下手な操縦をするより、何もしない方が安定した飛行が出来る」というエピソードを残したほどの優秀機であった。
 森川にとって、アブロ練習機や三式初歩練習機は、ほとんど乗ったことのない陸上機であっても、やさしすぎる飛行機であった。しかし、これまで水上機一筋で来た森川には、得難い経験であり、後年、川西において二式大艇の生産が中止となり、双発夜間戦闘機「極光」や局地戦闘機紫電改」などの試験飛行に携わる際、海洋飛行団での経験が大いに生かされることになったのである。
水上機から陸上機へ変わるのは楽ですが、陸上機しか乗っていないパイロットに、水上機を飛ばしてみろと言いますと、離着水が難しいため、たいてい尻込みしてしまいます」
森川によれば、飛行場に離着陸する陸上機に比べ、水上機は離着水時の操作が難しく、陸上機パイロットの多くは水上機に乗ることを敬遠するが、水上機パイロットは陸上機に乗ることに、何ら抵抗を覚えなかったとのことである。
太平洋戦争末期、戦闘機パイロットの消耗から、戦艦や巡洋艦に搭載されていた水上偵察機や観測機のパイロットの多くが陸上機への配置転換となって活躍した。特に昭和二十年の沖縄戦において三座高速艦上偵察機「彩雲」のパイロットが、またロケット局地戦闘機「秋水」の実用実験隊の隊長以下テスト飛行に携わるパイロットのほとんどが水上偵察機からの転科者であった。
 これまで、小豆島でのわずかな代用教員生活を除けば、海軍という軍隊生活しか知らない森川にとって、羽田で大学生や専門学校の学生相手に飛行機の操縦を教えるという日本学生航空連盟での仕事は、のんびりとしたものであった。