森川、テストパイロットとして海軍航空廠飛行実験部へ

森川が日本学生航空連盟に就職をした昭和十年頃の羽田飛行場は、変形の菱形をした敷地約八十万坪、三千メートル(A滑走路)、二千五百メートル(B滑走路)、三千百五十メートル(C滑走路)の三本の滑走路に、国内外の定期便がひっきりなしに離発着を繰り返す国際空港(東京インターナショナル・エアポート)となった今日とは異なり、葦が一面に生い茂り、鴨や野鳥の生息する一キロ四方ののどかな場所であった。日本航空輸送株式会社の高翼単発六人乗りフォッカー・スーパーユニバーサル機(中島飛行機ライセンス生産)や、双発の中島AT2旅客輸送機による大阪や札幌などの旅客定期便の外、新聞各社の社用飛行機の離発着に使われているぐらいで、日本学生航空連盟では、何ら気兼ねすることなく飛行訓練に励めたが、学生は、横風に弱く、発動機の調整の難しいアブロ練習機を敬遠して、安定性に優れている三式初歩練習機に乗りたがった。
昭和十一年七月十日、海軍は海洋部を学生航空連盟から分離独立させ、新たに「財団法人学生海洋飛行団」を創設した。名誉団長に海軍航空本部長山本五十六中将、理事長に航空本部総務部長塚原二四三少将、理事と評議員には総務部第一課長草鹿龍之介大佐、教育部長大西瀧治郎大佐など、現役の海軍軍人が役員に就任した。
 七月三十日、森川に待望の長男が授かった。森川は、「晃」と命名した。
 しかし、その喜びもつかの間、八月十五日、妻・智恵子が四歳の美恵子、生まれたばかりの晃を残し、産褥熱で急逝した。
森川は、葬式をすませると、乳飲み子と幼子を小豆島の妻の実家に託した。
 妻の死の反動は大きかった。一人になった森川は、妻を喪った悲しみと二人の子どもとの離ればなれの寂寥を紛らわすかのように、同僚教官の運転するパッカードに乗り、連日銀座や新橋の盛り場に繰り出しては、深夜まで飲み回った。
森川は、金銭に淡泊であった。一つには、飛行艇パイロットが長かったということがある。一人で飛ぶ単座の戦闘機パイロットと異なり、飛行艇パイロットだけでも主副二名、その外に偵察員、搭乗整備員、電信員など六、七名もの搭乗員が各々の持ち場、役割をはたさなければ飛ぶことが出来ない。搭乗員相互の意志の疎通がもっとも大切であった。航空隊での森川は、同じ飛行艇に乗り組む搭乗員のみならず、地上で整備に携わる者に対しても、航空加俸や月々の俸給を惜しげもなく振る舞った。海洋飛行団の教官になっても、その気質は抜けてはいなかった。
長身で端整な顔立ちのパイロット、ダンスも踊れば、三味線に合わせて粋な踊りもこなす。それでいて、金払いのいい独り者である。銀座や新橋の、その筋の女が放っておくはずがなかった。
羽田の、灯りのともっていない、冷え冷えとした家へ帰っても、妻や子の思い出が浮かんでは消える。つい帰りそびれて、馴染みの待合いから羽田の海洋飛行団に通う日が多くなった。
 無理もなかった。森川は、まだ三十歳を迎えたばかりである。
それまでの森川は、飛行訓練の前日は、心身の調子を整えることについて気を配り、過度の飲食を避け、時間の許す限り五体を休めることに努めていた。特に、水上機の訓練は風と波の静かな早朝に行われる。旧式の陸上初歩練習機とはいえ、寝不足の充血した目をし、酒臭い息を吐きながら飛行機に乗るなどということは、それまでの森川からは、到底考えられないことであった。
森川の八十有余年の人生で、ただ一度だけ、酒と女に溺れた毎日であった。
その頃、新宿の赤い風車ムーランルージュには、連日うつろな顔をした学生や会社員が集い、やり場のない憂さを、つかの間の享楽で晴らしていたように、世相は非常時の重圧に揺れ動いていた。
昭和十年、陸軍部内で皇道派と統制派の勢力争いが激化し、八月十二日、皇道派の先鋭将校相沢三郎中佐は、白昼堂々陸軍省内において統制派の中心人物である軍務局長永田鉄山少将を軍刀で斬殺。翌十一年に入ると一月十五日、日本はロンドン軍縮会議脱退。二月二十六日、陸軍の皇道派将校安藤輝三大尉ら二十二名の青年将校昭和維新を唱え、指揮下の歩兵第一、第三、近衛第三連隊などの下士官兵を率いて首相官邸陸軍省、警視庁、朝日新聞社重臣邸を襲い、斉藤実内大臣(前首相)、高橋是清大蔵大臣(元首相)、渡辺錠太郎教育総監(陸軍大将)を射殺、鈴木貫太郎侍従長(海軍大将)に瀕死の重傷を負わせ、永田町、三宅坂霞ヶ関赤坂見附一帯を、その制圧下においた。幸いにも岡田啓介首相は義弟の松尾伝蔵陸軍大佐が身代わりとなって射殺され、かろうじて難を逃れた。世にいう「二・二六事件」である。また、国外に目を転じると、加藤寛治海軍大将の提唱による満蒙開拓義勇軍が全国から募集され、中国大陸に新天地を求める青少年、主として農家の次男、三男が茨城県内原訓練所で移住の訓練を受け、続々と満蒙の地に送り込まれていた。その反面、成都事件以後日本人へのテロ事件が頻繁に起こり、抗日運動は激化の途をたどっていた。
 昭和十二年二月十六日、森川は、親類の世話で、故郷である小豆島四海村に住む岡本ツネと結婚し、二人の子どもを先妻の実家から引き取った。
 森川は、妻となったツネに、「何があっても、朝は笑顔で送り出してくれ」とだけ言った。
 これは、死んだ妻にも結婚の際に言った言葉であった。
ごく普通の勤め人、職人、商人でも、朝っぱらから妻と言い争いをすると、その日一日は、その諍いに気をとらわれ、心を乱してしまう。子どもでも同じである。朝から親に怒られると、その日一日おもしろくないのは、誰もが経験していることである。
地球に引き戻そうとする重力に逆らって飛行機を飛ばすパイロットの場合、神経を集中させる度合いが、普通の勤め人と比べものにならないくらい高い。大空では、その瞬間瞬時に、的確に判断しなければならない。妻や同僚とのストレスに心を波立たせていると注意力が散漫となり、ミスがミスを呼び、取り返しのつかない事故を引き起こしてしまう。勤め人が、書類を間違えました。忘れていました。商売人が、お客さん、勘定を間違えました。これから気を付けますでは、すまないのが大空であった。
 森川が、妻となったツネに、「何があっても、朝は笑顔で送り出してくれ」と言ったのは、このためであった。
森川は、新しく迎えた妻と、心ならずも離ればなれに暮らしていた幼い二人の子どもを引き取ったことにより、銀座や新橋に繰り出しては、深夜まで飲み歩くこともなくなった。
「森川さんは実に温厚な人柄の教官で、私ども海洋飛行団の教え子をしばしば家に招いては、ご馳走してくれました。森川さんは尺八の名人で、興に乗ると奥さんの三味線や琴と合奏したり、粋な踊りを披露してくれました」
 海洋飛行団の教え子の一人である岡本大作は、その頃の森川をこう語っている。
森川は新しい妻や二人の子どもの写真の外に、羽田で練習機の発動機を起動させるハックスターター(消防自動車のように車体を真っ赤に塗り、発動機を起動させる鉄棒を装備した車)のハンドルを握る森川、三原山の火口の航空写真、茨城県西茨城郡友部町にある霞ヶ浦航空隊友部分遣隊での夏期合宿、大島遠征風景などの写真をアルバムに貼っている。
森川は、大学生や専門学生に飛行機の操縦を教えるという穏やかな暮らしを送っていたが、海軍は森川ほどのベテランパイロットを、いつまでも民間で遊ばせてはおかなかった。
三月に入ると、横須賀にある海軍航空廠飛行実験部水上機班の班長である近藤勝治中佐が羽田の海洋飛行団にあらわれ、「森川、飛行実験部に来て欲しい。峯松も伊東も貴様の来るのを待っている」と告げた。
 近藤勝治中佐も伊東祐満少佐も、森川が霞ヶ浦の飛行練習生だった頃から何かと目をかけてくれていた名飛行艇乗りであり、峯松厳中佐は十年前に一四式水上偵察機パイロットとして乗組んでいた戦艦陸奥の航空科長であった。
森川が誘われた海軍航空廠は、昭和七年四月一日に発布された「航空廠令」により、横須賀追浜にある横須賀海軍航空隊に隣接する地に総合航空実験及び研究機関として、昭和五年十二月に航空本部技術部長となった山本五十六少将、翌六年十月に三代目航空本部長となった松山茂中将、その前任者である安東昌喬中将らの尽力により創設されたもので、「航空兵器の設計及び実験、航空兵器及びその材料の研究、調査及び審査並びにこれに関する諸種の技術的実験を掌るほか、必要に応じ航空兵器の造修購売を掌る」ことを目的として創設されたものであった。初代航空廠長は、霞ヶ浦航空隊司令、第一航空戦隊司令長官という航空畑出身の枝原百合一少将、組織として「総務部」、「科学部」、「飛行機部」、「発動機部」、「兵器部」、「飛行実験部」、「医務部」の七部門に分かれていた。
 海軍航空廠の創設については、海軍航空の歩んできた道に起因する。
日本の航空界は、飛行機を自前で設計、試作、製作するのではなく、欧米各国からの飛行機を輸入するとともに人員を派遣し、設計、構造、操縦、運用などを学ぶことから始まった。
大正七年に入ると、国産の飛行機を設計、製作しようと気運が盛り上がり、中島飛行機製作所、翌八年には川崎造船所兵庫工場飛行機課、石川島飛行機製作所、渡邉鉄工所が、九年には三菱内燃機製造、川西機械製作所、愛知時計電気航空機部などの飛行機製作会社が次々と設立されが、欧米の飛行機のノックダウン(国産化)に止まった。
大正十四年に初めて空を飛んだ森川にとって、アブロやハンザ、ロールバッハ、ショート、ル・ローン、ヒスパノスイーザ、ロレーンなど、外国製飛行機や発動機の名前がなつかしく思い出されるのは、このためである。
 森川が晩年まで記憶していた欧米の飛行機や発動機は次の通りである。
◎ 飛行機
ドイツ(ハンザ、ハインケル、ロールバッハ、ドルニエ、ビュッカー、ユンカース、メッサーシュミット
 フランス(モーリス、ニューポール、スパッド、プレゲー、テリエ、サルムソン、アンリオ、アンリ・ミリエ)
イギリス(アブロ、ソッピース、パーナル、マーチン、サイド、グロスター、ブラックバーン、ショート、サウザンプトンデハビランド、スーパーマリン、ビッカース)
イタリア(フィアット
 アメリカ(カーチス、フェアチャイルド、セバスキー、キンナー、コンソリデーテッド、ダグラス、ビーチクラフト、ノースアメリカン、チャンス・ヴォート、ロッキード
 ◎ 発動機
 ドイツ(グノーム、マイバッハ、ユンカース、ベンツ、BMW
 フランス(グラーデ、ルノー、ヒスパノスイーザ、ル・ローン、ロレーン、サルムソン)
イギリス(ウーズレー、ネピアブリストルロールスロイス
イタリア(フィアット
 アメリカ(ホールスコット、キンナー、プラット・アンド・ホイットニー、ライトサイクロン)