鵬翼直舞玖島崎・生と死の淵からの生還

 これまで飛行機が山に激突して一人の犠牲者も出さずにすんだという例は、森川の知る限り皆無であった。二月に平壌から京城に向かった大村航空隊の八九式艦上攻撃機三機が、濃霧のために一番機と二番機は山に激突、三番機だけが、かろうじて京城にたどり着くという惨事が起こっていた。指揮官機である一番機の高野中尉は第二十三期飛行学生出身、二番機の坂田三等航空兵曹は第一期乙種飛行練習生出身、ともに大村航空隊屈指の戦闘機パイロットであった。
航空隊では、帰投時間になっても一五式飛行艇が姿を見せないので憂慮していたが、玖島崎の山中に飛行艇が墜落したという一報を受けると、直ちに救助隊が海陸両面で編成され、墜落現場に向かった。
佐世保鎮守府はもとより、航空隊では司令の大西瀧治郎大佐、副長の市丸利之助中佐以下、事故現場からの連絡を待ちながらも、大村から佐世保までひとっ飛び、通い慣れた飛行である。まして一五式飛行艇の主操縦員は、八期飛行練習生出身、飛行歴十年の森川航空兵曹長、伊規須利秋一等航空兵、瀧本市太郎一等整備兵曹という佐世保航空隊きっての飛行艇搭乗員であり、航空隊とは目と鼻の先にある針尾の瀬戸の空と海は、掌を示すが如く熟知している。いわば自分の家の庭のようなものである。そんな森川と伊規須が玖島崎の山中に激突するなどという事故を起こすはずはないが・・・誰もが墜落事故を信じられない面もちであった。
 大西司令、市丸副長ともに、森川が霞ヶ浦での飛行練習生時代の教官であった。特に大西司令は、森川が練習生を卒業して佐世保航空隊に配属された時の飛行長であり、森川が一四式水上偵察機パイロットとして陸奥に乗組んでいた時の連合艦隊航空参謀であった。二人とも、森川の冷静沈着な人柄とパイロットとしての経験、その力量は熟知していた。
しかし、時間がたつにつれて、飛行艇が山に激突し、山腹をえぐりとるようにして粉々に砕け散っているという凄惨な光景がそれぞれの脳裏に浮かび、航空隊に沈鬱な空気が流れた。
飛行機の墜落現場は凄まじい。人間の身体などは墜落の衝撃でたやすく飛散し、その原形をとどめることは、ごく希である。燃料タンクに引火すれば、骨ごと焼き尽くされる。誰それと識別するのに、ガソリンで炙られ黒焦げになった骨と歯があればいい方であり、その惨状は鬼気迫るものであるということを、航空隊に勤務する者ならば、誰もが知りすぎるほど知っていた。
 やがて、「飛行艇ハ玖島崎ノ山中ニ不時着陸、機長ノ山田中尉以下搭乗員ハ皆無事」という二報目が入り、航空隊に漂っていた沈鬱な空気は一掃された。
航空隊では、救助活動を終えると墜落事故の査問委員会が設けられ、機長の山田中尉以下搭乗員に対して事故解明の査問が始まった。
森川は、大村を離水して佐世保に向かう途中、琵琶ノ首鼻沖で天候が急変して豪雨に遭遇、盲目飛行を余儀なくされたため雲低まで高度を下げて機位を確認、その後玖島崎の山中に不時着したと報告した。
 伊規須、瀧本、岸垣も、山田中尉が操縦していたことには触れず、同様の証言した。
現在のように、無線の交信記録やフライトレコーダーがあるわけでもなく、森川ら搭乗員の証言と事故現場の検証の結果、査問委員会は、五人の搭乗員の内、山田中尉が大腿骨を骨折しただけで一人の殉職者も出さなかったのは、玖島崎の山中への衝突の際、森川がとっさにスロットルを絞り操縦輪を引いて飛行艇を失速状態にしたため、墜落というよりは、山肌に沿って不時着したからだという裁定を下した。
 森川の航空記録に、「昭和九年九月十五日(土曜日)、一五式飛行艇サー四号ヲ操縦、山田龍人中尉、伊規須利秋一等航空兵、瀧本市太郎一等整備兵曹、岸垣操一等整備兵同乗、午前十時三十分頃玖島崎上空ニオイテ用務飛行中山中ニ墜落、公務負傷、同乗者負傷」という朱書きが書き入れられた。
森川にとって、昭和二年四月に、荒れた大連沖で着水に失敗して一四式水上偵察機を破損させて以来、二度目の朱書きであった。
パイロットにとって、愛機を墜落させるということは、何ものにも代え難い恥辱であり、飛行艇は数少ない海軍の最新兵器である。主操縦員として飛行艇を墜落させた責任を厳しく問われるはずであった。
森川は、軽くて「一ヶ月間の飛行停止、進級停止」という懲罰を覚悟したが、森川の思いとは逆に大西司令は、搭乗員の責任懲罰を一切不問にしたばかりか、漢詩をよくする市丸副長に、飛行艇で玖島崎上空を飛んでいたところ、豪雨に遭遇し山に衝突、何時間か死後の世界をさまよったが、全員生きて帰ってきた。喜ぶべきことであるという意味の漢詩を作ってくれるように頼んだ。
大西司令自身、第六期飛行学生出身、水上機母艦「若宮丸」に水上偵察機パイロットとして乗組み、二度緊急着水して救助されている。さらにイギリスへ向かう途中のインド洋で、忽然と消息を絶った日本郵船の「常陸丸」を捜索するためにマルチープ諸島上空を飛行中、発動機の故障でインド洋に不時着水して九死に一生を得るという経験を有していた。
 また、森川ら搭乗員の生還を我がことのように喜んでくれた市丸副長は、大正十五年五月、霞ヶ浦航空隊陸上機班操縦教育主任として飛行学生との同乗飛行訓練中、乗っていたアブロ練習機の操縦索が切れたため墜落。右大腿骨と頭蓋骨を骨折、顔面複雑骨折、股関節脱臼という瀕死の重傷を負っていた。
 大西司令は、市丸副長の漢詩を半切にしたため、搭乗員五人全員に贈った。

 (ホウヨクタダチニマウクシマザキ)
 鵬翼直舞玖島崎
 (ヨウウンゴウウユウヒヲハバム)
 妖雲豪雨阻雄飛
 (ゴウゼンユウコツユウメイノカン)
 豪然悠忽幽冥間
 (イノルベシサイセイイットノジン)
 可祝再生一統陣
 
呈森川勲君 大西瀧治郎

 大西司令は、飛行艇は再び造ることが出来るが、有能な飛行機搭乗員は佐世保航空隊、ひいては海軍航空隊にとってかけがえのない宝である。山に激突して一人の犠牲者を出すことなくすんだのは、卓越した操縦技量と的確な判断力があったからだと、懲罰を覚悟していた森川ら搭乗員を、逆に褒め称えた。
昭和十九年十月、絶望的な戦局を挽回するためにフィリピン沖海戦において、零戦に二百五十キロ爆弾を抱かせて体当たりをする神風特別攻撃隊を編成し、「特攻隊の生みの親」と呼ばれ、終戦時には軍令部長として米内光政海軍大臣に徹底抗戦を主張したが受け入れられず、「特攻隊の英霊に曰す」という遺書を残して割腹自殺した大西瀧治郎の知られざる一面である。
飛行艇が山に激突したにもかかわらず、一人の犠牲者を出すことなくすんだことに安堵したのは航空隊だけでなく、佐世保鎮守府も同じであった。二月には、大村航空隊の八九式艦上攻撃機二機が山に激突し、パイロット二名が殉職。続いて三月十二日、長崎県平戸島志伎岬南方海域において、二月に竣工したばかりの最新式水雷艇「友鶴」が激しい波浪を受け転覆、艇長岩瀬奥市少佐以下九十八名が殉職するという「友鶴転覆事件」が起き、海軍大臣の命において設置された査問委員会により、事故原因の究明がなされた矢先のことであった。佐世保鎮守府では、海陸両面での事故が続いていたからである。
 この一五式飛行艇墜落事故は、森川のパイロットとしての力量を、佐世保航空隊のみならず、海軍の飛行機搭乗員の間に広く知らしめることになり、これ以後、佐世保鎮守府司令長官の米内光政中将が用務で飛行艇を使う際には、森川が指名されるようになったのである。
 晩年に至っても森川が、「米内さん」、「米内さんは」と敬慕し続けたのは、この時からである。