飛行機の燃料に不可欠な四エチル鉛(テトラエチル鉛)

 飛行実験部で九試中艇の実験主務をしていた伊東祐満少佐が、日本初の大型飛行艇実施部隊として昭和十一年十月一日に開隊された横浜海軍航空隊(浜空)の飛行長兼副長代理に補された。しかし九試中艇は九一式飛行艇の後継機としてロールバッハ式以来飛行艇製作では、もっとも経験豊富な広海軍工廠の設計試作部が航空廠に移って初めて手がけた純国産の飛行艇であった。それだけに実験主務者の伊東少佐が、いきなり九試中艇から手を離すことは出来ない。伊東少佐の横浜航空隊への着任はずるずると遅れたが、いつまでも着任を引き延ばすわけにはいかない。そこで、小型水上機だけでなく、飛行艇パイロットとして優れた技量と経験を持つ森川ならば、と後を託し横浜航空隊に着任したのであった。
森川が試験飛行に携わることになった九試中艇は、発動機が主翼の架上に搭載されていたこれまでの飛行艇とは一線を画し、発動機二基をパラソル型主翼の前縁に取り付けるという新機軸を採用、その年の一月、海軍に制式採用された川西の九試大艇(九七式飛行艇)を双発にしたような外観であった。
 双発にもかかわらず三発飛行艇に匹敵する性能を目標とした九試中艇は、ポーポイズやバウスプレー(艇首が波頭に当たると艇首周辺から波飛沫が高く舞い上がる)現象を克服し、昭和十五年二月三日、九九式飛行艇(H5Y1)として海軍に制式採用された。諸元、性能は、高翼単葉双垂直尾翼、全金属製艇体、乗員六名、全幅三十一・五七メートル、全長二十・五メートル、全高六・七一メートル、主翼面積百八㎡、自重七・三六二トン、搭載量四・一三八トン、全備重量十一・五トン、翼面荷重百七㎏/㎡、馬力荷重六・一㎏/hp、三菱「震天」二十一型空冷式複列星型十四気筒離昇出力千二百馬力発動機二基搭載、プロペラ型式ハミルトン定速三翅、直径三・七一メートル、最高速度三百六キロ、巡航速度二百二十二キロ、着水速度百十三キロ、上昇力三千メートルまで十一分三十二秒、実用上昇限度五千二百八十メートル、航続距離四千七百三十キロ、武装七・七ミリ旋回機銃×三、爆弾二百五十キロ×二を懸吊というもので、広海軍工廠、愛知時計電気、川西において二十機製作された。設計主任は岡村純造兵中佐、試作責任者は太平洋戦争末期、赴任先のドイツからUボートで帰国の途中ドイツが降伏したため、艦内で青酸カリをあおいで自決した庄司元三造兵大尉であった。
その他、森川が試験飛行に携わった飛行艇の諸元、性能は次の通りである。
 フェアチャイルド水陸両用機(フェアチャイルドAー942ーB水陸両用飛行艇)は、海軍がアメリカ・フェアチャイルド社から昭和十一年に購入した水陸両用飛行艇であった。高翼単葉木金混成構造、全長十三・〇一メートル、全幅十七・〇八メートル、全高四・四七メートル、自重三トン、搭載量一・七七トン、全備重量四・七七トン、主翼面積四十五㎡、ライト・サイクロンRー1820ーF52空冷式星型九気筒七百五十馬力発動機一基搭載、最大速度二百七十六・五キロ、実用上昇限度五千八百五十メートル、上昇時間千メートルまで三分三十秒、航続距離千百二十五キロ、主翼下面に引き込まれる翼端フロート、陸上機として飛行場に離着陸する際に使用される引き込み式の主脚が艇体に装備されていた。乗員二名、乗客八人を乗せることが出来たが、発動機が単葉主翼の架上にあるため重心位置が高く、離着陸、離着水の双方に熟練を要した。
 コンソリデーテッドP2Yー1哨戒飛行艇は、海軍が九試大艇(九七式飛行艇)の設計、試作の研究資料とするため、川西をダミー会社としてアメリカ・コンソリデーテッド社から昭和十年に一機購入した、一葉半主翼、双垂直尾翼、金属製一部羽布張り、全長十八・八二メートル、全幅三十・四八メートル、全高五・二五メートル、主翼面積百四十・六〇㎡、自重五・五四六トン、搭載量四・〇〇四トン、全備重量九・五五〇トン、ライト・サイクロンRー1820ーF2空冷式星型九気筒七百二十馬力発動機二基搭載、金属製三翅プロペラ、最大速度二百十キロ、着水速度百十キロ、実用上昇限度三千二百五十メートル、上昇時間千四百五十メートルまで十分、最大航続距離三千五百キロという諸元、性能で、川西九七式飛行艇に大きな影響を与えた飛行艇である。
 勝田三郎少佐とともに試験飛行に携わることになったダグラスDFー1J飛行艇は、コンソリデーテッドP2Yー1哨戒飛行艇と同じく、川西をダミー会社としてアメリカ・ダグラス社より昭和十二年に二機購入した、高翼単葉全金属製、翼端フロート引込式の最新鋭飛行艇であった。全長二十一・六四メートル、全幅二十八・九五メートル、全高六・一〇メートル、主翼面積百二十・三一㎡、自重七・六四三トン、搭載量五・三〇七トン、全備重量十二・九五トン、ライト・サイクロンRー1820Gー2空冷式星型九気筒八百五十馬力発動機二基搭載、金属製三翅プロペラ、直径三・五六メートル、最大速度二百八十六キロ、着水速度百四・五キロ、実用上昇限度四千三百六十メートル、最大航続距離約五千三百キロ、乗員四名の外に乗客三十二名を乗せることが出来る、世界でもっとも進歩した飛行艇といわれ、その後の日本の飛行艇に多大な影響を与えた。
航空機燃料のアンチノック性をあらわすオクタン価という指数を日本の航空界に持ち込んだのも、ダグラス飛行艇であった。
それまで日本において飛行機の燃料は、アメリカから輸入したオクタン価六十五の航空機用燃料を使用していたが、ダグラス飛行艇のライト・サイクロン発動機は、アメリカ軍用規格のオクタン価八十七という航空機用燃料を使用するように指定されていた。そのためアメリカから輸入したオクタン価八十の航空機用燃料に、これも輸入した四エチル鉛(テトラエチル鉛)を加え、オクタン価八十七としなければならず、ダグラス飛行艇の搭乗整備員は、猛毒である四エチル鉛の二ガロン缶を携帯し、給油の際にはゴムの手袋をしてガソリンと混ぜ合わせていた。ダグラス飛行艇は、航空機用燃料の分野でも先進的な飛行機であった。
 もっともアメリカは、日本が航空機用燃料の生産に必用なイソオクタン製造装置を保有していないことや、オクタン価を高めるために不可欠な四エチル鉛を国内で産しないことにつけ込み、昭和十五年八月、航空機用燃料と四エチル鉛の輸出を許可制とし、十六年八月一日になると、高オクタン価の航空機用燃料と潤滑油の対日輸出を停止して、真綿で首を絞めるように、日本を開戦へと追い込んでいったのである。