昭和の初め、飛行艇は空飛ぶ舟(フライング・ボート)と呼ばれていました(笑み)

 昭和の初め、飛行艇空飛ぶ舟(フライング・ボート)と呼ばれていました(笑み)

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 希代のテストパイロットであった森川勲さんが空を飛んでいた昭和の初めは、飛行艇は空飛ぶ舟と呼ばれていました。                   
      
日本海軍初の制式飛行艇である一五式飛行艇は、大正 十五年に広海軍工廠において橋口義男造兵大尉を設計主務者として設計、試作に着手したもので、基本設計はF五号飛行艇の踏襲であった。昭和二年十月、試作一号機が完成、速度の向上を図るために主翼幅を二十二・九七三メートル(F五号飛行艇は三十一・五九メートル)と約七十三パーセントにまで切りつめていたが、F五号飛行艇に比べて最高速度は二十五キロほどしか改善されなかった反面、航続時間は二倍近い十四時間と飛躍的に延びたばかりでなく、離水能力、操縦性とも大幅に向上していた。四年二月、F五号飛行艇の製作打切りにともない、「一五式一号飛行艇(H1H1)」の名称で海軍に制式採用された。複葉木骨羽布張り、乗員六名、全幅二十二・九七三メートル、全長十五・一一メートル、全高五・一九二メートル、主翼面積百二十五㎡、自重四
・〇二トン、搭載量二・〇八トン、全備重量六・一トン、翼面荷重五十二㎏/㎡、馬力荷重六・七八㎏/hp、中島製ロレーン二型液冷式W型十二気筒四百五十馬力発動機二基搭載、プロペラ型式木製固定ピッチ二翅、最高速度百七十キロ、上昇力三千メートルまで三十三分五十秒、航続時間約十四時間五十分、武装七・七ミリ旋回機銃×二という諸元、性能で、一号(H1H1)、改一号(H1H2)、二号(H1H3)合わせて六十五機(広廠二十機・愛知時計電気四十五機)が生産され、昭和九年に生産中止の後も飛行艇部隊の主力として昭和十三年頃まで使用された。
 一五式飛行艇は、いったん飛び上がれば鳳が蒼空を飛ぶが如く、最低気速四十五ノットで水平飛行出来る安定性のよい飛行艇であった。制式採用されてわずか三ヶ月後の昭和四年五月、横須賀航空隊の進信蔵大尉指揮下の一五式飛行艇二機は、海軍航空長年の夢であった横須賀からサイパンまで往復二千五百四十四浬(モウグ島経由)を翔破するという快挙を成し遂げた。        
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宮崎駿監督のアニメ『紅の豚』を思い浮かべませんか・・・
    
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