日本人の手で初めて設計、製作された四発大型飛行艇である川西九七式大艇

  日本人の手で初めて設計、製作された四発大型飛行艇である川西九七式大艇

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 戦前、希代のテストパイロットと謳われた森川勲一等飛行機操縦士が、小豆島四海地区伊喜末の自宅の玄関に掛けていたのが、この日本人の手で初めて設計、製作された四発大型飛行艇である九七式大艇の写真です。
「昭和十一年七月、イギリスとドイツの飛行艇造りの長所を取り入れた高翼単葉双垂直尾翼、全金属製艇体、全長二十四・九メートル、全幅四十メートル、全高六・二七メートル、それまでの飛行艇とは一線を画す引き締まったスマートな艇体に双垂直尾翼、スパン四十メートル、面積百七十㎡という長大なパラソル式単葉主翼の前縁に四基の中島「光」二型空冷式星型九気筒離昇出力八百四十馬力発動機を埋め込むという斬新な新機軸を用いた九試大型飛行艇一号機が完成、川西での試験飛行を経て海軍に領収され、昭和十三年一月八日、海軍の要求性能をすべて満たすものと認められ、「九七式一号飛行艇・略符号H6K1」として制式採用された。それまで海軍航空隊で使用されていた九一式一号飛行艇より最高速度で百十九キロ、航続距離で千七百七十七キロ、巡航速度で六十三キロも速くなっていた。また、上昇力、実用上昇限度なども倍近い性能に向上しながら、操縦性、安定性は飛躍的に向上していた。欧米においても、この九七式大艇に匹敵する性能、装備の飛行艇は存在せず、純国産の飛行艇が、欧米の飛行艇を初めて凌駕したのである。
日本人の手で初めて設計、製作された四発大型飛行艇である九七式大艇(機種呼称である艦上戦闘機が「艦戦」、陸上攻撃機が「陸攻」、水上偵察機が「水偵」と省略して呼ばれていたように大型飛行艇は「大艇」と略して呼ばれていた)は、遠距離洋上哨戒、偵察、輸送、爆撃と多様な任務をこなしたが、その輸送機仕様は民間航空界で活躍した。
 昭和十四年四月、大日本航空は十八機の九七式輸送飛行艇(航空局登録名「川西型四発大型飛行艇」・H6K2ーL及びH6K4ーL)を、横浜・サイパンパラオ間の定期航路、さらにはポルトガル領チモール島に至る旅客輸送路に就航させ、南洋委任統治領の航空路を開設した。これら大日本航空の九七式輸送飛行艇は、「叢雲」、「白雲」など雲にちなんだものや、「黒潮」、「朝潮」など潮に、また「漣」、「綾波」、「磯波」など波にちなんだ名前をそれぞれつけられ、南洋航空路開拓飛行をテーマとして東方映画が製作した「南海の花束」には、内南洋の島々を駆けめぐる「漣」、「浦波」、「磯波」などが登場し、九七式輸送飛行艇の白銀の優美な姿は、広く国民に親しまれた。もし太平洋戦争がなければ、九七式輸送飛行艇は白銀の女王として太平洋に君臨し、民間航空界に大きな足跡を残していたに違いない。」『テストパイロット』より抜粋。

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    小豆島で清貧の暮らしをおくるノンフィクション作家の本です(笑み)
 
 本書の主人公の森川勲さんは、大正14年8月から昭和20年8月までの20年間の間に、複葉木骨麻布張りのイギリス製アブロ水上練習機にはじまり、川西局地戦闘機紫電改」まで、30数機にも及ぶ試作機や国内外の最新鋭機の試験飛行をして、「操縦の神様のような人」・「名人森川飛行士」と呼ばれた名テストパイロットです。
 戦後、故郷小豆島四海村に帰ってきた森川さんは、赴任拒否が続いていた四海小学校小豊島分教場に代用教員として単身赴任をし、離島教育に取り組みました。晩年は、四海老人大学の学長を務め、高齢者教育に尽力しました。
 今回はじめて希代の名テストパイロットで教育者であった森川さんの生涯が一冊の本(光人社NF文庫)となりました。前半は、大正14年8月第8期飛行練習生としての初飛行にはじまり戦艦「陸奥」乗組み、航空廠飛行実験部、川西航空機でのテストパイロット時代を、後半は小豊島分教場での僻地教育について書いております。
 なお、本書は森川さんと交流のあった、小豆島出身の鷹尾卓海(連合艦隊戦務参謀)、浜中脩一(駆逐艦「山風」艦長)、浅田次郎の小説『シェエラザ-ド』のモデルとなった阿波丸の船長浜田松太郎、中国の文豪魯迅が絶大なる信頼をおいていた頓宮寛(上海福民病院創設者)、日本の航空機揺籃時代の名パイロット空林永治(内海町出身)のことについても、かなりの枚数を費やしておりますので読んでいただけますれば幸甚です。

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