九六式艦上戦闘機との模擬空中戦

当時、この三菱機の設計、試作に携わっていた内藤子生(戦後Tー1ジェット練習機の主任設計者、東海大学名誉教授)は、激しい不意自転の対策について、こう回想している。
「赤城の山頂から静けさを求めて九十九里浜に向けて飛んでの実験、測定を終えたら太平洋に出ていました。四G旋回をすると強い自転を起こして飛行機が旋回円の外方へ投げ出されて、同乗の私は初回は目がくらみました。昭和十二年試作の二座水上観測機がそれで手を焼き、外翼に固定式スラットを設けたら直ったのですが、実験部から、しかしながら奔馬のように機が揺れる、直せないものかと言われ、様子がよくわからないので実験部をたずねて追浜上空で飛んでもらったところ、主翼の上面に貼布した毛糸が、迎角を減らすと風上になびき、迎角が増えて来ると風上へひっくり返るのです。これは主翼の曲線の曲り方が適切でないと考えましたが、適切な曲り方を発見するまで半年以上かかりました。これは私が若い日に発見した斬新な研究で学会へも発表しましたが、その執念は追浜上空で見た毛糸に支えられています。この種の実験は会社でも後にやりましたが、やはり実験部の性能試験の主題でした」
飛行実験部の性能試験では、錐もみからの離脱能力が重視されていた。錐もみ六旋転後に回復操作を行うと一回半旋転以内に安全確実に離脱がなされること。また、テストパイロットが手放状態でも四旋転以内に離脱可能であることが、飛行実験部の耐空性基準で定められていた。
もっとも、不意自転の対策で苦しんだのは、三菱の試作機だけではなかった。この頃の試作機には、不意自転現象が大なり小なり発生していた。日本海軍の主力艦爆として真珠湾攻撃などに活躍した愛知時計電気の九九式艦上爆撃機(十一試特殊爆撃機)もまた三菱機と同じように、昭和十三年一月の初飛行以来、「不意自転」と「補助翼のとられ」を解消するために、実に一年六ヶ月もの歳月を費やしていたのである。
 愛知機、三菱機とも甲乙つけ難い性能を誇っていたが、三菱機は不意自転を克服し、発動機をそれまでの中島製「光」一型から、外形で二百五十ミリ小さく、かつ最大馬力で六十馬力優る自社製「瑞星」十三型発動機に換装したところ、操縦性、安定性はそのままながら最高速度が三十七キロ速くなり、高度五千メートルまでの上昇時間も二分近くも短縮されるなど、いちじるしく性能が向上した。
その後、愛知、三菱の両試作機は、格闘戦性能試験のために横須賀航空隊に引き渡され、まず水上機でも翼面荷重、旋回半径などが小さく、格闘戦に強いと定評のあった九五式水上偵察機と模擬空中戦を行った。
格闘戦で相手を制するためには、機尾を相手にさらすまいと、垂直旋回、横転、宙返り、急上昇、急降下とめまぐるしく機位を変え、逆に相手の機尾に食らい付くことであった。
一週間にわたる格闘戦性能試験の結果、愛知、三菱の両試作機とも、操縦や運動性能などは九五式水上偵察機より優れているという判定が下された。
 続いて、海軍が誇る九六式艦上戦闘機との模擬空中戦が行われた。
水上機と陸上機、それも観測機と戦闘機との格闘戦の優勝劣敗は、戦わずして見えている。まして、重いフロートを腹に抱えた複座の水上観測機と、無類の空中運動性能を誇る単座の九六式艦上戦闘機とでは、まったく問題にならないという大方の予測をくつがえし、小回りの利く愛知や三菱の試作機が九六式艦上戦闘機の機尾に食らい付くと、速度に勝る九六式艦上戦闘機は上昇反転して襲いかかった。
この模擬空中戦に携わった横須賀航空隊のパイロットらは、複座の水上観測機ながら優れた空中運動性能を有する愛知、三菱の両試作機は九六式艦上戦闘機と互角の格闘戦が出来るという判定を下した。
しかし、最後まで三菱機と優劣を競った愛知機は、
「私が主に携わっていた愛知時計の試作機は、零式観測機として制式採用された三菱の試作機に勝るとも劣らないものでしたが、主翼の構造が木製だったので、残念ながら採用になりませんでした」
森川がこう回想しているように、愛知機は三菱機と比べて最高速度は二十五キロも上回っていたが、運動性能がわずかに劣っていた。また主翼と尾翼の構造が木骨合板製板張りのため、たえず波浪を受ける軍艦に搭載した場合、温度と湿度の変化による変歪や腐食が懸念されるという理由から採用が見送られ、昭和十四年十月、三菱機が「零式一号観測機一型(F1M2)」の名称で制式採用となった。
 零式一号観測機一型(通称・零観)は、複葉羽布張り全金属製セミモノコック構造、単フロート、乗員二名、全幅十一メートル、全長九・五〇メートル、全高四・〇メートル、主翼面積二十九・五四㎡、自重一・九二八トン、全備重量二・五五トン、三菱「瑞星」十三型空冷式複列星型十四気筒八百七十五馬力発動機一基搭載、プロペラ型式金属製可変ピッチ三翅、直径三・〇メートル、最高速度三百七十キロ、巡航速度二百三キロ、着水速度百十キロ、上昇力五千メートルまで九分三十六秒、実用上昇限度九千四百四十メートル、航続距離七百四十キロ、武装七・七ミリ機銃×三、三十キロ爆弾または六十キロ爆弾二を懸吊することが出来、昭和十八年まで三菱にて五百二十八機、佐世保工廠で百八十機、総計七百八機が生産され、戦艦や巡洋艦水上機母艦はもとより、ショートランド島水上機基地などに配備され、偵察、哨戒、対潜水艦攻撃、さらには米戦闘機との空中戦を演じ大活躍したのである。
飛行艇パイロットとして優れた技量と経験を持つ森川は、この愛知、三菱の両試作機の外に、九試中型飛行艇(九試中艇)やフェアチャイルド水陸両用機、勝田三郎少佐とともにコンソリデーテッドP2Yー1哨戒飛行艇、ダグラスDFー1J飛行艇の試験飛行に携わることになった。