小豆島出身、上海福民病院院長頓宮寛との出会い

 大空では、パイロットの一瞬の判断が、不用意な操作が、飛行機に乗っている者すべての明暗を分ける。森川とは横須賀航空隊で同じ飛行艇パイロットとして親交のあった佐藤宗次は、九〇式二号飛行艇を使った夜間離着水訓練において、着水時に失速して海原に突っ込むという事故に遭遇していた。
昭和七年十二月一日、横須賀航空隊にいた佐藤は、館山航空隊飛行艇分隊の進新蔵少佐(横須賀航空隊時代に二機の一五式飛行艇を指揮して横須賀・サイパン間往復飛行という快挙を成し遂げた飛行艇揺籃期の名パイロット)に飛行艇パイロットとしての技量を見込まれ、名指しで館山航空隊に転勤となり、九〇式二号飛行艇の操縦訓練に励んでいた。
転勤となって二ヶ月が過ぎた昭和八年二月八日、佐藤は九〇式二号飛行艇の夜間飛行の準備に取りかかっていたところ、午後から雨が降り出し、「本日の夜間飛行取りやめ」となり、ポンド(滑走台)に出していた九〇式二号飛行艇を格納庫にしまい込んだ。
 しばらくすると雨は止み、午後の課業が終わる頃、「飛行艇分隊夜間飛行用意」の命令が下った。夜間飛行訓練は中止と思っていた飛行艇分隊分隊員は、いったん格納庫に納めた九〇式二号飛行艇を再びポンドに引っ張り出した。
夜間飛行訓練の内容は、日没頃に離水して薄暮直上航過、続いて夜間離着水法の研究というもので、搭乗員は分隊長の進信蔵少佐(操縦)、蛯名幸四郎一空曹(操縦)、佐藤宗次二空曹(操縦)、市川達雄三空曹(操縦)と偵察、電信、搭乗整備員合わせて十名のクルーであった。
日没前、州崎に向けて館山沖を離水、高度二千メートルで直上航過、続いて離着水訓練に移った。
 分隊長の進少佐は、左側のメインシート(主操縦員席)に、蛯名一空曹、佐藤二空曹、市川三空曹と先任順に右側のサブシート(副操縦員席)に座り離着水操作を行う。その間、他の二人は操縦席の後から、高度計、速度計、回転計、前後傾斜計などが示す数値を計測用紙に記録し、着水時に飛行艇がどのような挙動をしたのかということを飛行訓練終了後、比較検討して最良の夜間着水方法を見いだそうというものであった。
 蛯名一空曹、佐藤二空曹と二回の離着水訓練を終わり、一番年若い市川三空曹が二回目の着水時に操縦輪を不用意に引いたため、九〇式二号飛行艇は四、五十メートル浮き上がり失速、約四十度の角度で機首から海面に突っ込み、海原に逆立つ九〇式二号飛行艇の残骸にすがりついていた佐藤ら六名は、通りかかった東京湾汽船の貨物船「松丸」に救助されたのであった。
この墜落事故は、各新聞紙上に在りし日の九〇式二号飛行艇の雄姿とともに、『殉職の兩氏・進少佐と市川兵曹』と顔写真入りで掲載された。森川は、この新聞記事をスクラップして、海軍記念写真というアルバムに貼りつけている。
 森川は、ダグラス飛行艇を操縦して上海へ通ううちに、同じ小豆島出身で、その頃、東洋一の個人総合病院と謳われていた上海福民病院「(FOOMING FOSPITAL)」の院長である頓宮寛と出会うことになった。
頓宮寛は、明治十七年二月二十二日、古来より子牛の形をしているといわれる小豆島の、ちょうど背中のあたり、石材と回船業を主とする戸数百軒余りの小部村に生まれる。家業は、祖父・貞斉、父・正平と二代続けて村医者であった。一人息子であった寛は小豆島第一高等小学校を卒業後、岡山県立岡山中学校(後の岡山一中)から薩南健児の屯する鹿児島造士館こと第七高等学校第三部を経て東京帝国大学医学部に進学。明治四十二年、大学卒業後、東京市三井慈善病院外科医局勤務。四十五年、日本医学専門学校教授。大正七年、東京帝国大学医学部より医学博士の学位を授与され、中華民国大治漢治萍公司院長を経て九年四月、上海福民病院設立。十一年、上海南洋医学専門学校名誉教授。昭和二年、上海共同租界衛生委員会日本代表委員。八年、上海日本医師会会長に就任という輝かしい経歴の持ち主であった。