魯迅が信頼した東洋一の上海福民病院

森川は、ダグラス飛行艇を操縦して上海へ通ううちに、同じ小豆島出身で、その頃、東洋一の個人総合病院と謳われていた上海福民病院「(FOOMING FOSPITAL)」の院長である頓宮寛と出会うことになった。
頓宮寛は、明治十七年二月二十二日、古来より子牛の形をしているといわれる小豆島の、ちょうど背中のあたり、石材と回船業を主とする戸数百軒余りの小部村に生まれる。家業は、祖父・貞斉、父・正平と二代続けて村医者であった。一人息子であった寛は小豆島第一高等小学校を卒業後、岡山県立岡山中学校(後の岡山一中)から薩南健児の屯する鹿児島造士館こと第七高等学校第三部を経て東京帝国大学医学部に進学。明治四十二年、大学卒業後、東京市三井慈善病院外科医局勤務。四十五年、日本医学専門学校教授。大正七年、東京帝国大学医学部より医学博士の学位を授与され、中華民国大治漢治萍公司院長を経て九年四月、上海福民病院設立。十一年、上海南洋医学専門学校名誉教授。昭和二年、上海共同租界衛生委員会日本代表委員。八年、上海日本医師会会長に就任という輝かしい経歴の持ち主であった。
頓宮と福民病院の名を日本中に一躍知らしめたのは、昭和七年に起こった上海爆弾事件であった。
 第一次上海事変停戦後の昭和七年四月二十九日、上海新公園において天長節祝賀式を挙行中、朝鮮独立党の尹奉吉が投げつけた爆弾が破裂、壇上にいた支那派遣軍司令官白川義則陸軍大将、植田鎌吉陸軍中将、野村吉三郎海軍中将、重光葵駐中公使、村井総領事、河端民団長などが重傷を負って倒れ伏した。
 直ちに白川大将、植田、野村の両中将は軍関係の兵站病院へ運び込まれ、海軍が大連から急遽呼び寄せた船川尤三軍医大佐の執刀で手術をした。一方、民間人である重光公使、村井総領事、河端民団長は頓宮の福民病院に運ばれ、重光公使の右脚は頓宮の執刀で切断し、一命を取り留めたのであった
 激動の中国大陸に医学を普及するという青雲の志を抱いて中国に渡り、五・四運動勃発、排日反帝のゼネストが吹き荒れる国際都市上海に、何の後ろ盾もなく徒手空拳で医院を開いた頓宮は、中国で生活しながら中国の文化と伝統に敬意を払おうとせず、中国人を「日本人は五寸で中国人は四寸」と侮蔑しながらも、わずかな儲け話に飛びつき、平気で信義や面子を捨て抜け駆けをする、同胞を裏切るという日本人の「島国根性」に、何度も煮え湯を飲まされ、苦い経験を重ねていた。それ故、頓宮の医師としての理念は、「患者はお客様、人種階級の差別なく、つとめて親切丁重に」、「患者の前で他人の欠点、文句を言うな」、「人前で怒るな」、「中国人患者に対しては、私自身中国人になったつもりでなるべく通訳は付けない」というものであった。
 このように頓宮は、海外で生活する日本人がおちいりやすい、自分達だけの村社会(コミュニティ)を形成し、現地の人々の生活にとけ込まないという閉鎖性を嫌い、福民病院の業務の主力は中国人、その次が欧米人と日本人という経営方針であった。また、患者によって中国語、英語、ドイツ語、ロシア語、日本語の五カ国語を使い分けて診察する頓宮のコスモポリタンな姿勢は、中国人のみならず欧米人からも深い信頼を得たのであった。
 七十年たった今日、政治、経済、教育などあらゆる分野において「国際化」が声高に叫ばれているが、相手の国の言葉(最低限英語)とロジックを駆使してディベイト出来る政治家、官僚、企業人、そして頓宮と同じ医者が、はたして何人いることであろうか・・・
頓宮の経営する上海北四川路一四三号の福民病院は、診察を受けようとする中国人や欧米各国の患者で門前市をなす活況を呈し、これまでの建物では手狭になったため、頓宮は昭和九年十二月十六日、エレベーターを有する鉄筋コンクリート造り七階建ての本院を建設、これまでの病棟を別院とした。本院の総工費四十万元の大半を無利子、無担保で頓宮に供したのは日本人ではなく、某中国人であった。
頓宮の、中国人に対しては、金がなくとも門前払いはしない、ある時払いでいい。お金を持っている人からはもらうという、信を相手の腹中に置いていささかも疑わない、「寛」という名前の通り寛厚な頓宮の人柄だからこその、国を、民族を超えての破格の融資であった。
 新装なった福民病院本院は、近代建築学の粋を尽くし、通風、採光、防音などに配慮したもので、頓宮の専門である外科を初めとして、内科、泌尿科、小児科、婦人科、歯科、眼科、耳鼻咽喉科、レントゲン科に練達の専門医師が配され、看護婦のほとんどが中国人、守衛や雑役などはインド人という具合に、最盛期にはイギリス、ドイツ、ロシアなどの医師を含め職員総数二百余名という東洋一の個人総合病院であった。
 その福民病院のすぐ近くに、日本海軍陸戦隊本部があった。頓宮は艦隊が入港するたびに、病院の屋上で日本人会を開催していた。第一次上海事変に横須賀海軍特別陸戦隊機銃中隊長として上海の地を踏んだ小豆島四海村出身の鷹尾卓海や、陸軍第九師団参謀の高橋坦も福民病院をたずねて頓宮と会っている。
 ダグラス飛行艇で上海に飛来していた空林と森川は、「海鷲空林特務少尉・森川空曹長」ということで、頓宮の催す日本人会に招待された。
空林も森川も、同じ小豆島出身の頓宮の盛名は知っていたが、会うのは初めてであり、頓宮も二人が小豆島出身者とは知らなかった。
七階建ての病院の屋上で行われた日本人会において、頓宮と会った森川の印象は、
「頓宮先生は容貌魁偉の偉丈夫でした。太い眉、炯々と光る大きな目、医者というより海軍の野村吉三郎提督によく似ていました。頓宮先生は私と空林さんが同じ小豆島出身だとわかると、大変喜んでくれました」