魯迅、頓宮寛の福民病院に我が子を託す。

  国を、主義主張を超えて医療に邁進する頓宮の福民病院には、日本人のみならず、さまざまな人間が患者として訪れていた。
 太平洋戦争開戦前、野村吉三郎駐米大使、来栖三郎特命全権大使を補佐し、日米交渉に奔走した外交官寺崎英成の妻であり、昭和三十二年夏に日米両国民が真に理解し、心と心を触れあえるような「かけ橋」が太平洋にかかることを願って書いた回想録『太陽にかける橋』の著者であるグエン・テラサキも、その一人であった。
昭和六年十一月十四日、ワシントンで寺崎と華燭の典を挙げたグエンは、その年の暮れ夫とともに日本に向かい、翌七年七月、グエンは夫の赴任地である上海へ妊娠九ヶ月の大きなお腹を抱えて赴いた。出産を間近に控えたグエンは、上海に着くとすぐにアメリカ人かイギリス人の産婦人科の医師を探し、福民病院産婦人科医師ドクター・バリーというイギリス人に電話をかけ、
「出産が近づいているので産院を紹介していただけないでしょうか、自分はアメリカ人なのでアメリカ人かイギリス人の医師に診て欲しいのです」
 と頼んだが、ドクター・バリーは、急に、それも電話で頼まれても、これまでの経過がわからないので責任を持ちかねると、婉曲に断った。
 グエンはあきらめずに事情を説明した。
「私の主人は日本の外交官なのですが、赴任してきたばかりで、上海の事情をよく知らないのです。日本人の医師ならば主人にも探せるでしょうが、私は日本人の医師はいやなのです。日本ではドイツの医学が主流で、お産に麻酔を使ってくれません。どうかお願いします」
これを聞いてドクター・バリーは、自分が勤務する福民病院を紹介したのである。
この福民病院で生まれ、重光葵が名付け親となった寺崎とグエンの一粒種が、後年アメリカ民主党リベラル派の女性活動家となり、ベトナム戦争反対を叫んだ「マリ子」である。
 福民病院の患者の中で、中国人では日中国交正常化に務めた寥承志、中華人民共和国政務院副首相を務め日中友好協会名誉会長となった郭沫若蒋介石とその妻である宋美齢孫文の妻である宋慶齢などばかりか、中国が生んだ世界的文豪である魯迅もその一人であった。
 若き日、医学で中国を救おうという信念のもと、日本に留学して仙台医学専門学校に学んだことのある魯迅は、昭和四年九月、出産が近づいた夫人の許広平を、かねてより内山完造(内山書店店主)から聞き及んでいた頓宮の福民病院に入院させた。
福民病院が購入する医学書を初めとした雑誌、書籍類のすべてを引き受けていた内山は、頓宮より一つ年下、九月一日に魏盛里から福民病院とは目と鼻の先に書店を移転したばかりであった。
 許広平の出産は、陣痛が長く続き、ついには鉗子で胎児を引き出すという、医療施設と技術の遅れた中国人の病院であれば、夫人とお腹の中の子どもは命がなかったといわれるほどの難産であった。また、上海で生まれた子どもという意味で海嬰と名付けられた魯迅許広平の一粒種は蒲柳の質であり、しばしば風邪をひいたり、熱を出した。そのたびに魯迅は、海嬰を抱いて福民病院に通ったのである。
 戦後、海嬰はこのように述懐している。
「父は内山先生に相談にのってもらい、どう治療したらいいか、どの先生に診てもらったらいいのか、みんな内山先生に頼んでおりました。ほんとうに私たちは内山先生を信用し、頼りにしておりました。
父からもよく聞かされましたし、自分の目でも見ていました。子供の私にさえ、内山先生に頼っていれば安心だ、という気持ちがありました」(ドキュメント昭和2・上海共同租界・角川書店より抜粋)
 魯迅の最期を看取ったのも、魯迅が信頼していた福民病院内科医師の須藤五百三と石井政吉であった。

 老板几下
意外ナ事デ夜中カラ又喘息ガハジマツタ、ダカラ、十時頃ノ約束ガモウ出来ナイカラ甚ダ済ミマセン。御頼ミ申シマス、電話デ須藤先生ヲ頼ンデ下サイ。早速キテ下サル様ニト 艸々頓首 L拝 十月十八日

これは、魯迅の絶筆となった昭和十一年十月十八日付けの内山完造への寸信であるが、魯迅が待ちこがれていた須藤先生とは、福民病院の須藤医師であり、内山からの電話を受け、魯迅の住居に駆けつけた須藤医師の二度目の注射の後、「僕の病気はどうなってるのだろう」とつぶやいたのが、魯迅の最後の言葉となったのである。
 また、北京の魯迅記念館にある魯迅の胸部レントゲン写真を撮影したのは、頓宮の右腕といわれていた福民病院副院長兼内科医長松井勝冬博士であり、魯迅の死を悼み、虹橋路の万国殯儀館で行われた六千人近い葬儀のために車を供したのは、中国人以外では頓宮の福民病院だけであった。