回首七十有餘年 人間是非飽看破

日本の敗戦とともに福民病院の本院、別院、居宅を初めとした莫大な資産をすべて国民軍に没収され、トランク二つを携えて故郷小豆島小部村に帰ってきた頓宮は、五ヶ月後の昭和二十一年九月、上海から引き揚げ日本各地に分散していた旧福民病院の医師や看護婦に声をかけ、島内唯一の総合病院である健康保険組合立内海病院の創立に尽力し、初代院長に就任した。
頓宮の気宇の大きさをあらわすエピソードが病院関係者の間に残っている。
 内海病院の落成式の後、祝賀会が設けられた。その席上、微醺を帯びた町の有力者の一人が頓宮に、
「頓宮先生、先生は上海で大けな病院を開業していたそうやが、借銭はどのぐらいあったんどな」
と、揶揄するように聞いてきた。
「まあ、小豆島を三つ足して売っても、私の借銭には足りませんな」
頓宮が有力者の不躾な質問に対して、こう答えると、
「ほう、ずいぶん大けな借銭でしたんですな・・・」
来賓の一人はこう言うと、薄ら笑いを浮かべたながら頓宮を見つめた。
すると今度は町長が、
「頓宮先生は落成式の挨拶に、私は小豆島を病人が一人もいない島にするようにがんばります。その拠点がこの病院ですと言われましたが、町としては患者が来なくなれば赤字になって困りますが」
頓宮の挨拶の言葉に、冗談紛れの不満を漏らしたところ、
「町長さん、心配することはありません。人口五万の小豆島に病人がいなくなれば、世界中から患者がこの病院にやって来ます」
我が意を得たりとばかりに頓宮は答えた。
 しかし、これらの受け答えがもとで、頓宮先生は「大風呂敷だ」とか、「大陸ぼけ」しているという噂が流れたほどであったが、日本の、それも瀬戸内海に浮かぶ小豆島の物事の尺度では、頓宮ははかりきれなかったのである。
頓宮は、健康保険組合立内海病院を発展的に継承した町立内海病院の初代院長を一年間務めると、小部村に帰り村人相手に診察を開始したが、八十近くなってもなお、かつて自分が建てた上海の福民病院を中国各地で猛威を振るう地方病根絶の拠点とし、日中両国の医学者による共同研究機関設立の構想を親しい人に熱っぽく語った。

 回首七十有餘年  首(こうべ)を回らせば七十有余年
人間是非飽看破 人間(じんかん)の是非看破に飽きたり
往来跡幽深夜雪 往来の跡は幽かなり深夜の雪
一炷線香古匆下 一炷(いっしゅ)の線香古窓の下

この七言詩は、頓宮の好きだった良寛の『草庵雪夜作』である。
 人間の是非看破に飽きたりどころか、頓宮の志は衰えを知らず、小豆島小部村に閑居しながらも、「我、中国とのかけ橋とならん」という雄大な構想を思い描いていたのである。
 八十歳を迎えた頓宮は、診療所を次男の秀夫に任せると、罠にかかり傷ついた日本猿の治療を行うようになった。
小豆島の山々には、古来から日本猿が生息している。山で食べ物が不足すると麓に下りてきては、枇杷や柿などの果実や野菜畑を荒らしていた。これら猿の害に困った村人は罠を仕掛けて猿を捕獲し、動物園などに送っていたが、罠は猿の手足を痛めることもあり、手当をしなければ死んでしまう。頓宮は、農協に勤める浜垣清文という青年から、「頓宮先生、頼みます」と傷ついた猿を持ち込まれると、頓宮は、「わしはもう人間を診んようになったから」と言いながら、かつて国手と呼ばれ、診察を受けるために大勢の患者が訪れて門前市をなしたその手で、猿の治療を行った。
 昭和四十九年十二月六日、激動の中国大陸に医学を普及させ、日中のかけ橋とならんという壮大な夢を追い求めた頓宮は、回想録などに手を染めることなく、波瀾に満ちた九十年の人生に幕を引いた。
内山完造が北京で客死した際の盛大な報道と葬儀とは裏腹に、頓宮の死を掲載した新聞は一紙もなく、わずかに「小豆島新聞」という島の月刊紙が報じたに過ぎず、その葬儀も参会者数十人という、いたって簡素なものであった。