二式大艇で真珠湾攻撃・庄助ラッパこと笹生庄助

もう一人は、森川と同じ飛行艇パイロットとして、海軍航空隊にその名を轟かせた、「庄助ラッパ」こと、笹生庄助である。
 昭和十七年一月、開戦劈頭の真珠湾攻撃で擱座や大破した艦船の修復を行っている真珠湾海軍工廠に爆撃を加え、アメリカの反攻の出ばなをくじこうと、海軍に制式採用されたばかりの二式大艇三号機、五号機(ともに増加試作機)による第二次真珠湾攻撃(K作戦)が計画された。
三月四日、笹生特務中尉は二番機の機長兼主操縦員として、この作戦の指揮官である橋爪寿男大尉の一番機とともにマーシャル諸島ウォッゼ島を離水し、途中ハワイ手前のフレンチ・フリゲート環礁に着水、潜水艦からの洋上給油を受けた後、オアフ島を爆撃したのであった。
飛行練習生時代から大言壮語をする癖があった笹生は、パイロット仲間から「庄助ラッパ」というあだ名を付けられていたが、傑出した操縦技術で、足かけ二日間、三十三時間にも及ぶ第二次真珠湾攻撃を見事成し遂げたのであった。
笹生は、温厚で練習生を怒鳴りつけたこともなければ、殴ったことのない森川とは、まさに正反対の性格であった。飛行艇に乗り込み操縦席に座ると、がらりと人が変わった。それは操縦の教え方にあらわれていた。飛行訓練中、大きな目玉をぎょろつかせて罵詈雑言を浴びせるのは序の口で、動力レバーの操作が悪いと手を払いのける。手を出さないでいると、なぜ手を出さないのかとげんこつを見舞い、フットバーに置いている足を蹴っ飛ばす。練習生や技量の未熟なパイロットには、殊の外やかましく、鬼の庄助ラッパと畏怖されていた。
このように、間瀬、笹生の二人のパイロットに共通するのは、大胆で、奇抜、命のやりとりをする第一線で、その持てる操縦技術を遺憾なく発揮する闘将タイプのパイロットであり、時には臆病という印象を持たれる森川とは、同期生ながら対極に位置する名パイロットであった。
 森川は、ヴォートコルセア水上偵察機を使って、航空廠飛行実験部で定められている各種試験飛行の慣熟に努めた。
そんなある日、飛行実験部のヴォートコルセア水上偵察機が飛ぶたびに、隣接する横須賀航空隊水上機分隊の血気盛んな若手パイロットが、地団駄を踏んで悔しがっているという噂が森川の耳に入ってきた。
横須賀航空隊では、昭和九年五月に制式採用された九四式一号水上偵察機を使っていた。
三座水上偵察機の傑作機といわれた九四式一号水上偵察機(E7K1)は、複葉羽布張り鋼管骨組み、単フロート、乗員三名、全幅十三・九九メートル、全長十・五〇メートル、全高四・七三五メートル、全備重量三トン、広廠九一式水冷W型十二気筒六百馬力発動機一基搭載、最高速度二百五十九キロ、航続時間十四時間、武装七・七ミリ旋回機銃二挺、三十キロ爆弾×四、または六十キロ爆弾×二を搭載という諸元、性能で、操縦性、安定性、離着水時の凌波性に優れ、一号型と発動機を三菱「瑞星」空冷式複列星型十四気筒八百七十馬力に換装した二号型とを合わせて五百三十機が、川西や日本飛行機などで製作された。
いくら飛行機が高性能でも、風が弱い日など年若いパイロットはいたずらに水上滑走するだけで、なかなか離水することが出来ない。その横を、海面の状態と吹く風をすばやく読み、鮮やかに離水する森川のヴォートコルセア水上偵察機を見るたびに、我こそは海軍航空隊の総本山と自負する横須賀航空隊の水上機パイロットらが、地団駄を踏んで悔しがったのも無理はなかった。
 馬力だけを単純に比較すると、旧型のヴォートコルセア水上偵察機の四百五十馬力に比べて、新鋭の九四式水上偵察機は六百馬力と強力であったが、飛行機は馬力だけで飛ぶのではない。水上機の場合、「離着水を見れば、そのパイロットの腕前がわかる」といわれるように、技量の差が歴然とついてしまうのである。