操練同期・源田サーカスの二番機間瀬平一郎

翌日から森川は、ヴォートコルセア水上偵察機に計測員を乗せて航空廠飛行実験部で定められている各種試験飛行ーー◎離着水試験(海上旋回・水上滑走距離・視界・操縦性・離水速度・上昇角度・着水速度・着水角度・補助翼(エルロン)、昇降舵(エレベーター))、方向舵(ラダー)など三舵の均衡と調和度、利き具合)。◎全力上昇試験、部分上昇試験(各高度における上昇角度・上昇率・上昇限度)。◎全開高度最高速試験(最高速度の測定)。◎シーレベル最高速試験。◎安定性試験(静安定・動安定)。◎操縦性試験(三舵の利き具合・重さ・性癖)。◎運動性試験(加速・降下角度・沈下率・旋回半径・性癖)。◎自転試験。◎失速試験(失速速度・性癖)などの慣熟に励んだ。
 試作機の試験飛行や欧米の最新鋭機の研究には、最新のメカニズムを解明する科学的な側面と、感性的な側面からの分析が必用である。そのためテストパイロットは、一機でも、一機種でも多くの飛行機に、水上機のみならず、陸上機、単発機、双発機を問わず操縦して、それら飛行機の構造と飛行原理を体得することが、何よりも求められていた。
森川は、長年の経験から、パイロットは機体や発動機の原理や構造を把握し、その取扱いに熟知すること。これが的確で大胆な操縦につながり、ひいては飛行中の突発的な事故を未然に防ぐことになるということを信条とし、暇さえあれば機体の整備や発動機の修理の模様を見るために、廠内の飛行機部や発動機部に足を運び、自分が理解出来るまで、納得がいくまで技手や整備員に説明を求めた。
 このように森川は、飛ぶということに関して用意周到であり、これまでも航空隊の血気盛んな若手パイロットなどから、「八期操練のパイロットがそこまでしなくても」とか、「森川空曹長は慎重な人ですね」と受け取られる場合も多々あったが、航空廠飛行実験部のテストパイロットとなってから、その傾向は一層強まった。
 第八期飛行練習生は、森川とは対照的な二人の名パイロットを輩出した。
 一人は、戦闘機パイロットとなった間瀬平一郎。もう一人は、森川と同じ飛行艇パイロットである笹生庄助である。
 間瀬は、横須賀航空隊時代、源田サーカスの二番機として衆目を驚かすアクロバット飛行で、国民の間にその名を広く轟かせていたばかりでなく、その卓越した操縦技術は、実戦においても遺憾なく発揮された。
 昭和十一年十二月一日、中国空軍の本拠地ともいえる広徳飛行場の偵察を命じられた佐伯航空隊戦闘機分隊の間瀬は、大胆にも飛行場に着陸、悠々と地上滑走を続けながら格納庫をのぞき込み、ノースロップ機がいることを視認するや離陸し、わずか五十メートルという超低空で懸吊していた六十キロ爆弾を投下、狙い違わずノースロップ機を爆破するという快挙を成し遂げたのであった。
その頃、九六式陸上攻撃機や九六式艦上爆撃機などの爆撃隊は、中国軍の対空砲火により大きな犠牲を出していた。そのため中国軍の飛行場の上空を低空で飛ぶことを厳しく戒められていた。間瀬は、よもや日本軍の飛行機が、たった一機で飛行場に侵入し、それも地上滑走などするはずがないという中国軍の思いこみを、逆手にとったのである。
 飛行練習生時代から自分の操縦技術には絶対の自信を持ち、「自分は飛行機の事故では絶対に死なない」と公言していた間瀬は、杭州、寧波などの飛行場も超低空で詳細に偵察し、寧波では広徳飛行場と同じく、超低空で格納庫を爆破した。
 間瀬の偵察写真を見た参謀の一人が、「これは飛行機から写した写真ではない。地上から撮影したものである」と言い張って、なかなか信じようとはしなかったというエピソードを残したほどである。
 間瀬の、大胆不敵、中国空軍の度肝を抜く捨て身の飛行機捌きと、間瀬愛唱の「切りむすぶ太刀の下こそ地獄なれたんだ踏み込め神妙の剣」という柳生石舟斎の道歌は、血気盛んな戦闘機パイロットに熱狂的に支持された。
昭和十三年、小川大尉率いる艦爆隊が南昌飛行場に着陸して中国軍機を焼き払い、十五年には零戦隊が重慶飛行場に強行着陸して同じように焼き払おうとしたのは、空の英雄と謳われた間瀬空曹長に倣ったものであった。