局地戦闘機「紫電」誕生のエピソート

太平洋戦争中、空技廠飛行実験部において三菱の零戦雷電、川西の紫電の試験飛行を担当していた帆足工大尉というテストパイロットは、豪快、竹を割ったような気性で、自分がこうと思ったら絶対に妥協しないという性格の持ち主であった。帆足大尉は、雷電の試験飛行中に墜落して殉職するが、帆足大尉の気性と性格をあらわすエピソードが、森川ら川西のテストパイロットの間に残っている。
 昭和十七年十二月三十一日、川西初の陸上戦闘機「紫電」が、その産声ともいうべき二千馬力級発動機「誉」の甲高い爆音を伊丹飛行場に轟かしていた。
 十二月十五日、「紫電」試作一号機は、試験飛行のために鳴尾工場から、人目を避けるように運び出されると団平船に積み込まれて大阪湾を渡り、凍てつく夜空の下、築港からトラクター牽引のトレーラーで伊丹飛行場に急遽造られたトタン張り格納庫へ運び込まれた。
二十七日、二十八日、二十九日と三日間にわたり川西のテストパイロットである乙訓輪助飛行士によって地上滑走試験が行われ、一日おいた三十一日、空技廠飛行実験部戦闘機担当の志賀淑雄大尉、帆足工大尉立会いのもと、会社が定めている試験飛行の手順通り、乙訓飛行士の手で地上滑走とジャンピング試験が開始されようとしていた。
社長の川西龍三を初めとして前原副社長、橋口義男航空機部長、菊原静男設計課長ら川西の技術者らと森川勲、太田与助、岡本大作、岡安宗吉らテストパイロットが見守る中、試作機の証として機体をオレンジ色に塗られた紫電試作一号機に川西の乙訓飛行士が乗り込もうとすると、紫電を矯めつ眇めつ眺めていた帆足大尉が、自分が先に試乗したいと言い出した。
橋口航空機部長や菊原設計課長は、まだ一回も飛んだことのない試作機である。万が一のことがあればと懸命に押しとどめたが、帆足大尉はどうしても試乗したいと言い張って聞き入れようとしなかった。結局、乙訓飛行士の代わりに地上滑走だけならと川西側が折れたが、帆足大尉は川西との約束を破り、そのまま飛び立ってしまった。そればかりか、翌十八年正月元旦には、引き込み脚を収納して異例続きの初飛行を行ったのであった。
 いくら零戦の優位に翳りが見え、後継機の完成が急がされていたといっても、これは官の威を笠に着た帆足大尉のわがままであった。初飛行が成功していたからよかったものの、万が一墜落していれば、それまで会社の総力をあげて取り組んだ川西初の陸上戦闘機の試作機と、その労苦は灰燼に帰してしまうところであった。
 その後、紫電の試験飛行は志賀大尉に引き継がれ、帆足大尉は三菱の雷電の試験飛行に携わり、離陸直後に墜落して殉職してしまうが、帆足大尉は、実戦でその持てる能力を発揮する闘将タイプのパイロットであった。それ故、あたら有能な戦闘機パイロットを喪失するという悲劇が起きたのである。
 テストパイロットに求められているのは、天使のように大胆で、悪魔のように繊細な操縦技術はもとより、飛行条件をすばやく的確に読みとり、定められた試験飛行をひたすら厳格に遂行するという精神力と、試験飛行中に起きるインシデントやアクシデントに対して、己の経験と知識を動員して瞬時に、冷静に対応することが出来る能力ーードイツ空軍のエース、ヘルムート・ヴィック少佐の飛行哲学である、「冷静の上にも冷静。無神経と思われるほどの冷静さ」であった。
 森川は、近藤中佐や峯松中佐の見込んだ通りテストパイロットに最適なパイロットであった。後は、一日も早く飛行機に慣れ、各種試験飛行の要領を習得することであった。